とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

あの木が聞かせてくれた声 2 (ものもの考 6)

 
 
※ 今回の投稿はかなり長いので、もし読んでいただける際には休み休み読んでいただけたらと思います。分割するとかえって話の流れがわかりにくいと思ったため1記事で載せました。§マークを使って話をおおまかに区切っています。どこかの時点でもう少し短く書きあらためるかもしれません。
 
 
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 もうだいぶむかしだが、ある文学分野の方が新聞にコラム連載をなさっていて、その方が身のまわりのさまざまなものものと会話している様子をたびたび書いておられた。どういうものものと話しておられたか覚えていないのだけれど、動物だけでなく植物や物品(たとえば家電品のことが書いてあったような気がする)がものをしゃべるのだった。その方は日々、そのように身のまわりのものものと話をしておられる様子に見えた。
 その連載を読みながら、私は、これはだいじょうぶなのかな、という気がしていた。その著者の方の「あたま」がどうこうということではなく、たとえば植物が話をしているとき、それはほんとうにその植物が言っていることなのだろうか、ということが気になったのだった。というより、私もふつうに、そのさまざまなものものが言っているという「話」はその著者の方が心に思ったことなのではないかと思ったのだった。
 たとえば植物が「話」をしている場合、もしその話が植物「自身」が話したことでなく著者の方が思ったことであるなら(私はそう思ったわけだが)、その「話」を聞いた著者の方がその「話」に即してその植物に対して何かをしたりしなかったりすると、そのことがその植物によくないことになるのではないか、という気がする。たとえば、植物が「水がほしい」と言ったので水をやったけれども、実は水は十分足りていて、その水やりの結果、根腐れを起こして植物が枯れてしまうということが、ありそうに思える。
 植物が「話した」と自分が思い込んでいることを、そのままその植物の思いや意思だとしてしまうと、植物にとって都合のよくないことをしてしまいかねない。だから、植物の「話」をその植物に帰してはいけないのではないか。相手がひとの場合なら、たとえばあるひとを見て、そのひとが何も言わないのに、そのひとが抱いてほしいと言っていると思って抱きつくことが許されるはずもない。それと同じことなのではないのか。そんなふうなことを当時も思っていたような覚えがある。
 そしていまも、大筋、そのようには思う。言葉を発しないもの(ひとを含めて)の「声」を聞いてその「声」に即して何かをする・しないことにするということや、その「声」を代弁することは、その言葉を発していないものに対してときに暴力的でありうる、という考え方を、ひとつの考え方として心に保持してはいる。
 
 ただ、その連載はなにかよかった。著者の方はものものと会話しながら日々暮らしておられて、その様子が、ものもの含めてしあわせそうに思えた。ものものがそのことで不幸に陥っているという様子もいま思い返せない(さっき書いたようにもう具体的なものものを思い出せないでいる)。なんというか、ものものとの会話が、そのものものに対して不遜なことになっていなかった気がする。むしろ、ものものとともにその著者の方が暮らして生きておられる、その景色が賑やかそうに、また穏やかそうに、文章の向こうにずっと見えていた覚えがある。

 
 
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 前の記事で書いた、私が「聞いた」ある木の「声」のことを、私はしばらくのあいだ、「関係としての○○」という言葉のもとで考えていた。○○の部分は実は何だったか思い出せない。「顔」だったかもしれないが違うような気もする。
 「関係としての○○」という言葉でもってあの木の「声」について考えていることは、概略次のようなことである。その木「自身」が発した「声」、その木「自身」が「言いたい」こと、というより、あるいはそうだとしてしまう前にまず、あの「声」はその木と私とのそのときの関わり合い、関係の中で私に「聞こえた」ことであり、もっと言えば関係「として」その「声」が聞こえた、あった、ということではないか、ということ。
 関係だから、その「声」はその時点では誰の側の持ちものということがない。木の「声」というわけでもなく、私が勝手に思ったことというわけでもない。よくよく考えてそのどちらかに帰属をさせたり、それぞれにそれなりの分担をさせたり、ということはできるかもしれないし、場合によってそうしなければならないかもしれない。しかし、少なくとも「聞こえた」その時点ではその「声」は誰かのものであるわけではなく、まずはそうした「声」として、その木と私とがいたそのときのそこにあったということである。
 「関係」という言葉の意味や適切な使い方はちょっと難しく思っている。ふつう「関係」と言うときには、Aという物とBという物とがあって(CやDがあることももちろんありうる)、そのAとBとのあいだの関わり合い、たとえば影響性であるとか、そういう事柄を言うだろう。このときAとBとはどちらも「関係」に先んじて存在していて、そのそれぞれに存在しているAとBとが関わり合うという図式や認識があることが多かろう。ときには、AとBとが「関係」に先んじて存在しているというよりはその「関係」がAとBとがそれぞれに存在することを成り立たせ、維持・支持しているということの表現として、「関係」と言われることもあるだろうと思う(わたしたちは人間関係の中で生きている、と「強く」言われるときのような)。ただそのどちらにしても、現時点での認識の上ではAもBも、それぞれに、存在している、ということではあるだろう。
 しかし、「関係」と言われるときにそうでない意味合いで言われることがある。そのひとつが、AやBは存在する実体ではなく、関係こそが実体なのだという話である。この話は社会科学の分野などでときどき耳にした。たぶん、AとBとの関係がAとBとをそれぞれ成り立たせているのだと認識したときに、そうであればより「根源的」なのはAやBなる存在者ではなく「関係」という項目のほうだ、「関係」からAやBなるものが発生してくるのだ、という考え方が出てきたりするのだろう。いまそういう考え方がどのくらい力を得ているのか知らないが、率直に言って、そう言われる場合のAかBである自分にとっては全面的には受け容れられない考え方である。ほんとうに突き詰めて「自分のこと」として考えていけば、いま生きて暮らしている「誰」にとっても、自分でなく「関係」のほうが実体だと言う話は受け容れられないのではなかろうか。
 ただ、「自分のこと」として考えると、「AとBとの関係」という言い方も適切だと思えなくなる。自分が認識しているのはふつうは、目の前にいる(ある)Aである。私がAを見ているときにそれを「AとBとの関係」だと言おうとすると、この場合Bは私ということになるが、私はAを見ているときにB(自分)ということを特段認識していないのがふつうだ。「見る」ときは目の前のAを見るのであって、それが「AとBとの関係」であると認識するのはその後のことだ。要は、ひたすらAがある、ということだ。
 Aがいる(ある)場でAを見ていて「声」が聞こえたとき、それはふつうにはまずAの「声」だと思うか、そうでなければ「誰か」の「声」がしたというふうに思うものだろう。それを、いやこの「声」はAではない、と一旦でも考えてみるとすれば、ひとまずはその「声」をAから取り上げて別物として置いておくことになるだろう。他の誰かの「声」だと考える余地が特になければ、その「声」は私の心の「声」、あるいは「妄想」ということにするかもしれない。しかしそうするより前に、その「声」はAと私との「あいだ」で私に聞こえてきた「声」だった、と言うほうが、段階を適切に踏んでいるように思う。ひょっとしたら、さきほど書いたようにその「声」はそれそのものが、Aと私との「あいだ」である、Aと私とをつなぐ「関係」である、のかもしれない。
 あのときの「声」を「関係としての○○」と考えてみるのは、「関係」という言葉をいわば一時待機の場所、逃げ場所に使っている感じだ。私はここで「関係」という言葉で言っている事柄をことさら実体視していないし、するつもりもない。なので「関係としての○○」を今後自分の頭の中以外で使っていくつもりも特にない。ただ、あのとき「聞こえた」「声」の身分としてどういうことが考えられるかと考えるときに、あの木の「声」とも私の「妄想」とも判断してしまわずに、慎重に考えていくためのひとつの道ではある、いや道端の休憩所のようなものになると思っている。
 
 
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 あのとき私が聞いたあの木の「声」は、あの木の発した声だと言う前に、あの木と私との「あいだ」に起きた出来事、「関係としての『声』」だったというふうに思うと、私は心がだいぶ落ち着く。厳かに穏やかに静かに立つあの木が私のような者に「自分の心のうち」を語って聞かせようとするはずもないと私は思う。いっぽうで、そんなふうに思っている自分があの「声」のようなことを「妄想」する必要もない。それなのに私の心に聞こえたあの「声」は、たとえあの木が「主体」として私に対して聞かせたのでなくとも、あの木を私が見たそのときのその場の薄い関わりの中で、むしろ「関わり」として、起きたひとつの出来事だったのだと、そういうふうにはやはり思う。その上で、「常識的に」あの「声」はやはり私が自分の心のうちで勝手に発生させた「妄想」みたいなものだと考えるのも、よくもわるくも無難なことだと思うし、あの「声」を自分の「耳」というよりは「心」で聞いた私が、自分で取るべき「責任」に適っているようにも感じる。
 しかしそう考えるなら、私は「関係として」聞くその「声」を、もっと自分の自由に、自分が望むように、思うことができるはずなのではないか。そもそも私の側の「妄想」であれば私の側でどのようにでも思うことが可能なはずで、べつに私に突き刺さるような深く考えさせられるようなことを思わずとも、面している相手とのあいだで私が楽しくしあわせにいられるようなことを「妄想」することも可能だろう。
 あのとき、私はあの木のそばで、あの木の「声」、伐られて痛いという「声」を聞いて、その「声」を自分の心でどのようにもできたのだろうか。枝を落とされたあの木がのほほんとして暮らしを楽しんでいる「声」を「聞く」ことができただろうか。そういうことではなかったようにいま思う。当のその木を前にしてまるっきり自分の自由にその木の「声」を「妄想」して作り出すことは、少なくともあのときはできなかったと私は思う。いまもできそうにない。
 それがどういうことか。考えると、私はやはりあの木の何かを「受け取っていた」のだと思う。かんたんに思い当たるまま言えば、あの木の、枝を落とされた姿、枝の切り口を晒していた姿を、受け取っていたのではあるだろう。であれば、私は自分の自由でいろいろに木の「声」や木の「思い」を思うことが「可能」であるはずであっても、あのとき聞いた「声」はやはりその木のあり方、その木の側のことと密に関わっている、ということだろう。もしくは、その木のあり方とその木を見た私のあり方とに、密に関わっている、のだろう。その木を見て私が「妄想」したことだとしても、その「妄想」の中身はその木のあり方に由来する、少なくとも方向付けられている、ということになるだろうし、あえて「妄想」をふくらませようとしてもその内容はその木のあり方のもとではそこまで自由にはならない、ということだろう。それは、聞こえた「声」をたとえ私の側の「妄想」だとして私の側で引き取ろうとしても、その「声」から「関係としての『声』」という性格を取り去ることが完全にはできない、少なくとも難しい、ということだろうと思う。「妄想」がつねに相手方のあり方や事情から自由になれないというわけではないかもしれないが、少なくともあのときのあの木のあり方から私の「妄想」は自由になれそうもない。
 それはなぜだろうか。木は人間側の事情や人間がもたらした事情に対して平然と超然としていると私が思っていても、私は心のどこかで、伐られたその切り口を痛々しく見ていたということだろうか。そのため、木が痛がっていると心のどこかで思い、そのことを木の「声」として「聞いた」というふうに体験した、ということだろうか。そう考えるのが「常識的」ではあるのだろう。
 ところで、伐られた枝の切り口を見て痛々しいと感じるそのとき、その「痛々しさ」はその木の「側」のことと何のつながりもなく私が勝手に体験したことなのだろうか。あるいは、勝手に体験したとして、その体験は木の「側」の事情、木の「側」のことと、符合することが特にないのだろうか。木の「側」のことを何かかすかに言い当てている、ということはまったくないのだろうか。私が誰か他のひとが怪我をしているのを見て痛々しく感じたとき、もしそれが私に備わった対人的な共感的な心的機序のために感じたのだったとして、それはそのひとの痛さが「伝わった」のではなく私が私の側で感じたということになるだろうから、そのひとが痛く感じているのであっても私の感じた「痛々しさ」はそのひとの痛さを「言い当てた」ということに留まる、あるいは収まる。そうであれば、相手がひとでなくとも、相手の側のことをどのようにか「言い当てる」ことはあるのではないか。
 いや、その木が痛々しく見えるとき、痛く感じている「その木」がやはりいる、のではないだろうか。その木は痛がっているかどうかわからないとしても、「その木」は痛がっているのではないだろうか。ここまで書いてきていま思い出したのだが、私が面していて「声」を聞いたあの木は、その木それ自身なのかどうかはともかく、「関係としての『その木』」であったのではなかろうか。その木自身が痛がっていたかどうかはともかく、「関係としての『その木』」は、あのときたしかに痛がっていた、ということではなかろうか。
 ひとが怪我をしているのを見て痛々しく感じ、そのひとが痛がっているとこちらが思うとき、たいていの場合はそのひと自身も痛がっていそうだが、しかしたとえば、「見た目ほど痛くない」ということはありうる。もっと想像をふくらませて言えば、痛々しく見えるのに実はケチャップを血の代わりにして傷に見せかけているということも、ありえなくない。しかしそれらのときにも、たとえそのひとが痛がっていないとしても、「関係としての『そのひと』」はやはり「痛がっている」のであるだろうと思う。
 そして、そういう「関係としての『そのひと』」が痛がっているということのこちら側での体験(「そのひとが痛がっている」というような)が、そのひと自身が痛がっているということを「言い当てていた」という仕方で、ひとは他のひとの痛さをふつう「受け取っている」のではないだろうか。その「言い当て」に何か根拠となるような仕組みや実際に伝達される物があるのかないのかはいま判断しようがないが、少なくともこの仕方でしかひとは他のひとの痛さを「受け取って」いないのではなかろうか。そして、実はやはりそこに、何か根拠となるような仕組みだったり実際に伝達される何物か何事かがあるということも、ありうるのではないか。
 であれば、その相手がひとでなくて木であっても、他のものものであっても、その相手の姿が痛々しく感じられるとき、その相手が痛がっていると感じたとき、その体験はその相手の側の、何らかの意味での「痛さ」を「言い当てて」いるということはないのだろうか。その可能性をいくらかなりとも信じていることが、相手の、またさまざまなものものの何らかの意味での「痛さ」を、そして他のひとの痛さを、「受け取る」道を開いておくことになるのではないかという気もする。
 痛さや何らかの意味での「痛さ」にかぎらず、相手の側、ものものの側の事情、向こう側のこと、そうしたことを「受け取る」通路が、細々とでもある可能性があるのだといちおう思っておく、そうすると、実はけっこうさまざまなものものに対して、ひとはそのものの側の事情、ものの「思い」、ものの「声」を、「関係としての『その相手』」を介して自然と「受け取って」いる、そういうふうに、世の中のいろいろなひととものとのあいだの在りさま、実情が、見えてくるのではないか。いま私はそんなふうに思う。
 
 
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 …のだけれどここで、先に書いた、言葉を発しないもの(ひとを含めて)の「語る」「声」を聞いてその「声」に即して何かをする・しないことにするということや、その「声」を代弁することは、暴力的でありうる、ということをあらためて思い起こす。
 「関係としての『その相手』」はその相手自身であるのかどうかわからない。こちら側ではわからない、と言うのが適切かもしれない。むしろ私は、ひとまずその相手自身のことと区別するために「関係としての…」という言葉を使ったつもりであるし、やはりそうするのが無難だろうと思う。相手自身の思いと異なったことを相手自身の思いだと勘違いする危険を避ける上では、その「無難」に留まることが重要だと思っている。
 突然に自分の人生を振り返るけれども、思えば「あのひとはこう思っていると思っていたのに…」という失敗や失態の連続を私は暮らしてきたようだ。しかも、そのときそのときには気付かずに、少し経ってから、だいぶ経ってから、気付くことも多かった。ひとの実際の思いは、こちら側で「受け取った」り理解したりした「思い」とは往々にして違う。その経験はやはり、もし「関係としての『そのひと』」が何かの「声」や「思い」を伝えてきた(ように思えた)としても、それをそのままそのひと自身の思いだと思うのは思いとどまっておくべきだ、ということを教えているのだと思う。
 しかし、そのひと自身の思いが伝わるとしても、それはこの「関係としての『そのひと』」を通路として、もう少し「常識的な」言い方に言い換えると、私に映る「そのひと」を通して、伝わってくるほかには(たとえば第三者のひとからの口添えをもらうなどがなければ)道がないのではなかろうか、というのが先ほど考えたことだった。そういう疑問を保持しながら、「関係としての『そのひと』」がそのひと自身の思いを伝えてくる可能性とそのひとに背く可能性とを(そしてほかの可能性があるのかもしれない)どちらも見据えて、「関係としての『そのひと』」に面していく必要がありそうに思う。
 「関係としての『そのひと』」に面して、そのひとの「声」や「思い」を「受け取った」(と思った)ときにどうするか、というのは、それこそそのひととの関係性に依るものだろうと思うし、ある程度、自分の責任で処すことになるものだろうとも思う。常識的にひとが欲しないようなことは「そのひと」が欲しているように思っても思いとどまるとか、そのひとにこちらから再確認するとか、倫理的でありたい人道的でありたいならそのための道はいろいろありそうではある。そして、相手が話すことができるひとである場合は、やはり話すことの中で、表情や「言外の意味」を「受け取り」ながら、そのひとの思いをわかり、わからなくともひとときをそのひととともにする、そうしたことがやはり大事になってくるだろうと、常識的に思う。
 
 
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 ただ、私にはそれでも、そうした「常識」のかたわらで、痛切に思い出すことがいくつかある。そのひとつをこの次のときの投稿に載せようと思う。むかし書いたもので、ときどき自分で読み返す。自分はこのことを自分の外に置いて先へはけっして行かない、と思う。
 
 
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 新聞コラムの、身のまわりのものものとさまざまな話を交わしておられた著者の方は、第三者の私が勝手にその方とものものたちとのあいだの出来事を解釈するのも不躾だろうとは思うが、ここまで書いてきたような「関係としての『そのもの』」とのあいだに、とても豊かな会話を交わしておられた、そのような気がする。聞こえてきた「そのもの」の「声」に返事をして、「そのもの」に問いかけをして、その「答え」をもらって、…というふうに、「そのもの」の「声」を豊かに聞き、「受け取って」おられたように思える。
 それは、聞こえてきた「声」、しばしば「妄想」として片付けられるその「声」を、ただその「声」ひとつにとどまらずに、さらに「聴いていく」ことだったろう。それは「妄想をふくらませる」ことと特に違わないことだと世間的には言われるのかもしれない。ただ私はそこで2つ思う。「聴いていく」ことをするかぎり、ただの「妄想」にとどまらずにそのもの自身の「声」、ひいては「思い」を、聴き取るチャンスがあり続けるのではないか。そして、ひょっとしたら、そのものを相手にしながら「妄想をふくらませる」中にも、その相手自身から何事かを「受け取って」いはしないか、その相手自身の何事かを「受け取って」はいないか。その可能性をかすかに心に思っておくことは、私にはどうしても大事なことに思える。
 そうしないと、「声」はそれが担っているものすべてを失う。「声」という事柄に、「声」を発することに、意味がなくなってしまう。そのような気がする。
 
 あのときの「声」のように、たしかに声だと言えるわけではない「声」。その「声」が聞こえてきたら、その「声」の前では、その「声」を「発した」ように思えるその相手の前では、立ち止まって、その「声」を繰り返し心に思い、いろいろ思い巡らせ、返事をして問い返して、その相手としばし「会話」を取り持つ、そのような心持ちでいたら、その相手とそのひとときだけでも隣り合って生きているその「生」が、いくらかでも、しあわせになりはしないか。いくらかでも、好転しはしないか。ひょっとしたら、相手にとっても。
 ガストン・バシュラールが「夢想」について書いたたくさんの言葉のうちの、ある一言を思う。バシュラールは、蠟燭の焔をはじめとしたさまざまなものものを前に「夢想」したひとであった。きっとそれらのものものと豊かにしあわせに「話」を交わしたひとでもあったろうと私は思う。
 

 夢想するイメージが存在するばあいには、これをこのイメージを創造した夢想をひきつぐようにとの招きだとかんがえなければならない。
ガストン・バシュラール 岩村行雄訳 『空間の詩学』 ちくま学芸文庫 p.266)

 
 あのコラムの著者の方は、そのように、そこで言われる「夢想(するイメージ)」のように、「そのもの」の招きを受けて、その招きをまさにお受けになられたのではなかったろうか。僭越ながらそのように、私はひそかに思っている。