とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

百年の鯉(同伴しているということ)

 

むかし、あるドラマの最後のところだけを見た。いやどのくらいの時間か見たのかもしれないが、最後のシーンだけが記憶にある。主人公の老いた男性が、池で百年生きている鯉のことを、おまえは誰にも知られずに(また自分も長く忘れていて)ここで百年生きてきたのだな、同じ時間を生きてきたのだな、と、池を見つめながら振り返るそのシーンだけ、覚えている。

 

自分がまちなかで草を見つけるとき、そのドラマのようにたがいに百年ではないけれど、ああそこにおったんやね、という感情がいくらかなりともそのつど湧いているように思う。自分はそのときまで気付かず、おおかたの人も知らずに日々そこを通っているだろうけれど、このまちをともに生きて暮らしていた。たがいに、それぞれなりの同じ時間を生きて暮らしてきた。

 

そういう草は、私にとっては生物である以前に、この世界を同伴している存在だ。私が知るいろいろな方々が、生物である以前にこの世界をともに生きて暮らしている、同伴している方々であるのと同じで。同伴と言うとどちらかがどちらかの付き添いみたいに聞こえてしまうが、そうではなく、たがいにこの世界の上で隣り合って生き合っているという意味で。

 

そしてたいていの場合、というかほとんどの時間、そのように隣り合って生き合っている存在に、そして誰か何かとそのようにいくらかなりとも近く隣り合っていまも生き合っていることに、気付かないでいたり、そのことを忘れていたりする。ドラマの男性のように、生涯の最後にようやく、気付き、思い出してじっと見つめたりすることもあるかもしれない。百年生きた鯉、日々行くまちの草、きっとほかにも、まだ気付いていないままこの世界を同伴している誰か何かがいるにちがいない。

 

このことにまつわる感情を抜きにして私は草のことを語りたくない、という気持ちが強くなってきた。

 

この世界で、この世界を、隣り合ってともに生きているそういう存在である「以前に」草は生物である、という考え方の方々とは私は違う。考え方が違う、というだけでは足りない気さえする。私は違う。どうしても違うのだ。

 

その「違う」ようにある、ということがどう成就するのか、どういうことを帰結するのか、私はわからない。ただ、もう「違う」とことさらに言わなくていいほどに、すんなりとそのようにありたいと、いまは思う。