とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

あの木が聞かせてくれた声 補遺

 
 
前の投稿(あの木が聞かせてくれた声 2)で、自分が以前書いたものをここに載せると書いた。その文章は当時特定の方々に向けて書いたもので、あらためて読み返したけれど、公開する性格のものではないように思えた。当時の自分の至らなさなども思うし、そのこと含めて自分の心にずっと留めておきたいけれど、再録するのはいまは控えようと思う。
前の投稿では私は「あのひとはこう思っていると思っていたのに…」という失敗や失態を繰り返してきたと書いたが、それよりももっと、そのひとがどう思っているかわからず、それでも何かをせざるをえず(あるいは、せざるをえないと自分で思って)何かをしてきたときの、たくさんの失敗や失態、そしてそのように呼ぶこともできないほどのいくつかのことが、私には重い。だからむしろ、声が聞こえないとき、そして「声」が「聞こえない」ときのことが、私には痛切な問題だった。そうしたことのうちのある出来事をその文章では書いている。
 
いま、さまざまな草や木と接していて、もちろん彼らはふつうの意味での声は発せず、そして彼らの「声」も「聞こえる」ことはめったにない。聞こえないけれども彼らにとってどういうことがよいのかを考え、わずかにでもかすかにでも「受け取る」ことができるものなら「受け取ろう」としながら、いろいろなことをしたりせずにいたりして、いまに至っている。何も変わっていない。おそらく、よくなってもいないと思う。
 
声は聞こえない、話はできない、それでもそのひとである、その「もの」である、いや呼びかけられているしはっきりと名指しで呼ばれている、返事を求められている。そのひとにそのものに面している私が私の「責任」を果たすよう求められている。そういうときもあったし、これからもあるのだと思う。
そのことの影のようなものが、あの木の「声」だったのかもしれない。いまそんなふうにも思う。