とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

言葉という刀

 

いつぐらいからだったかはっきり覚えていないが、また必ずしもそのように実行しているわけではないけれども、いつからか私はものを書くとき、ものごとが「わかる」ためでなく「わからなくなる」ために書く、という意識を持つようになった。

たとえば、すでに世間でよくわかられている事柄を、果たしてほんとうにそうなのか、そうであると言い切っていいのか、疑問が残る状態にいわば差し戻すような、そういうものを書きたいと思ったりした。

ひところ短詩を書いていた(やめたわけではない)。短詩は意味が散文のようには確定させがたい。むしろ特定の意味を結ばないように、意味が「散乱」していくように、書いていた。そういうものを書くことが、そのときの、そのころの自分にとっては、意味あることだった。いまもいくらかはそう感じている。

 

 

言葉は、どうしても「切断」の機能だったり作用だったりを果たす。「わかる(分かる)」というのは切断の結果である。しかし、ものごとを切断するということは、そのものごとをそのままの状態では受け取らない、受け容れない、ということでもある。

 

 

ある切り方で切られたものごとを、別の切り方で切ってみせることで、その切り方だけではないということを呈示することはできるのかもしれないと、思ってきたし、いまもある程度そう思っている。

しかし、それもやはり「切断」することではある。

 

 

言葉は物ではない刀である、ということだろう。

 

そうした、物ではない刀である言葉を、私は振るか振らないか自分で決めることができるはずだと思っている。

自分としては刀はいつでも振り回すものではないとも思っている。

 

 

だいぶいろいろな言葉の刃に当たった。対策として、その刃そのものを自分の刀で切り分けることもした。

それよりも大事なことは、それらの刃が私のほかに切り分けた、特に、切って捨てたほうのものごとの切れ端を、見つけて、拾っておくこと、印をつけておくことだろう。

 

できればもとの姿へと差し戻したいけれども、それは私にできることなのかどうか。いまは、切られた者として、きっとどこかに同じように切られたものがある、いるのだと、思っていようと思う。