とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

ものが「いる(居る)」ということ

 

「道の記」のブログのほうでだいぶ前から、みちみち見かけた草や木のことを基本的に、そこに「いる」と書いている。植物は「生えている」「植えられている」と書かれることが多いだろうけれど、みちみち見かける植物は生えているのか植えられているのかその場では定かにわからないことも多く、そして生えているにせよ植えられているにせよ、そこに「いる」とは言えるだろうから。

その意味で書く場合、そこに「ある」とは私はちょっと書きづらい気がする。クスノキがある、ナズナがある、という言い方は、クスノキがいる、ナズナがいる、という言い方よりも「合っていない」ような気がする。

 

植物にかぎらず、ものものが「いる」ということについてこのごろ考えている。ふつうに言えばものは「ある」のだが、私がものものに面しているとき、ものが「いる」と言い表したほうが合っているように思える場合が少なからずある。

今季、しばらく前から部屋で電気ストーブを使っている。最大800ワットのむかしの型で、20年くらい前はよく使っていた。その後、暖まりがあまりよくないのでセラミックヒーターを、次にファンヒーターを使うようになり、そのファンヒーターも長く使ったのだが、とうとう煤が出るようになり、むかし使っていた電気ストーブに再登場してもらって現在使って暖まっている。 その電気ストープを隣に見ていて、電気ストーブがそこに「いる」みたいな感じがする。「ある」と言うのではこの「いる」感じを表現できていない。そういう気がする。

 

「いる」という言葉はふつう、人や動物に使う言葉であるだろう。自分から動くことができるもの(者)がそこにやってくるか連れて来られるかしてそこを占めているときに、「いる」と言うのがふつうだろう。そのときの「いる」には、その「いる」ものが生きていることが意味されているだろうし、ぜったいにとは言えない気もするがその「いる」ものに意志や意識があることが意味されているようにも思う。

植物が「いる」とふつう言わないのは、植物は生きているけれども場所を動かないので、ということもあるだろうし、また、植物は常識的に言えば意志や意識を持っていないだろうから、ということもたぶんあるのではないかというふうに私は思う。

そうしたふつうに言われる「いる」と、いまここで私が書いている、ものものが「いる」ということとの共通さや違いを、詰めて考える必要があるのかもしれないが、それを詰めるより先に、ものものが「いる」と自分が感じるその感じ方、あるいは、ものが「いる」その「さま」を、書き表していくほうが順番としてよいような気がしている。「道の記」のブログなどで書いている内容がある意味それに応えていると思うけれど、そのことに焦点を定めて書き表すこともしてみたい。

 

いまぼやっと考えていることだけで、書くのに数回くらいかかりそうだ。小さくまとまり次第、小さなまとまりごとに載せてみたい。