最後のわからなさ
人が亡くなる前、まわりの人と意思疎通がきかなくなった後、そしてそこから先、その人が何を感じ取り何を思ったか、まわりからはもうわからない。
伝わってくるものがある気もするけれど、そしてそれを信じたくもなるし信じることが大切であるかもしれないけれど、わかるかわからないかということで言えば、やっぱりわからないものだと思う。
その最後のわからなさ、その人がその人として(一人称で)亡くなることのわからなさ。そのわからなさが、生きていることの、命と呼ばれる何事かの、最後の最後のいちばんの重しであるように思う。思うというより、重い。
その人の重さ、命と呼ばれる何事かの重さは、さまざまなことのうちにあると思うけれど、どうあってもその最後のわからなさがあることが、そしてそのわからなさに自身として立ち向かっているその人がいるということが、最後の最後にその人の重さを知らしめてくる。
そのような最後のわからなさに自身として立ち向かうのは、いわゆる「人」だけではないにちがいない。生き物はまちがいなく誰も、その最後のわからなさに向かう。生きていないものも、壊れる可能性を抱いているものであるなら、やはりその壊れることのわからなさに向かっている存在なのではないかという気がいくらかする。
そのことはむしろ、人が亡くなる前の最後のわからなさから告げられているようにも思える。
その、最後のわからなさのことを、やはりときどきは思い起こすことがたいせつだという気がする。