草を踏んで
草を踏まなくなった、というお話を読んだ。私も日ごろなるべく草を踏まないようにと思いながら歩いているが、それでも踏む。
この前も、ふとしたことである草を踏んでいた。その草はいま踏まれると花がひとつ咲かなくなるおそれが高い。花をたくさんつける種類の草ではなく、悪いことをしたと思う。しかし、その草を踏まないときには他の草を踏んでいるのでもある。
そして、草を踏まないように道を歩いているとき、その歩いているのは草が生えられないようにした舗道だと知っている。その舗道の下にたぶん、芽を出せなかった草や木の種子がしずかに眠っている。
それでも草を踏まないようにと思いながら歩いているのでもある。
野の花を踏みながら詩をうたうな、と言われていたことがあったような気がするのだが、私は、野の花を踏みながら他の野の草を愛でている。そして思う。うたっているということは、そのうたっている姿を「外」から見るならきっと、野の花を踏みながらうたっているということであるだろう。
野の花を踏みながら詩をうたうな、と叫ぶ人の気持ちはわからなくない。その人の足元は気になるけれど、その人の足元はその人がその人の責任で気にする以外にはないのだとも思う。私の足元をときどき見つめるだけだ。
そして、うたっているときはただただ、うたっている。うたうこととはうたうことなのだ。そのこともときどき、心に思い起こそうと思う。
野の花はきっとただただ咲いていたことだろう。