とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

ペンシル

 小学3年生のときだったと思うが、当時名古屋にいた親戚を旅行で訪ねていたときに、名古屋のデパートで、メカニカルペンシルというものを買ってもらった。芯をボタンで繰り出すいわゆるシャープペンシルで、それまでそういうものを知らなかった。ボディが透明で、とてもかっこよかった。

 そのペンシルを数年使っていたが、壊れたか無くしたかで、新しいペンシルを使うようになった。そちらは黄色のプラスチックで、何かキャラクターの柄があったように覚えている。それを中学生の頃まで使った。そのペンシルも大事にしていたのだが、宮崎の旅行に持って行って、どこかで無くした。父に頼んで、落としたのではないかと思われる場所をすべて回ってもらって探したが、見つからなかった。

 その後に使い始めたペンシルはすぐ壊れてしまい、それ以降使ったペンシルはあまり思い出せない。

 

 いま私は、透明な軸のペンシルを使っている。ものを読み書きするちゃぶ台の上にいま置いてある。これは長く使っている。10年は超えるのではないかと思う。安い物だが、よく壊れずにいてくれると思う。

 

 いま自分が日々接しているものもの、この家も含めて、いつかは手放すとき無くすとき壊れるとき離れるときが来る。先に私がいなくなることもありうる。どれだけ想っていても、そうなる。そのことをいまあらためて、突きつけられるようにして考えている。

 

 ジャンケレヴィッチが書いていた、「生きた、愛した、それだけだ」という誰かの言葉を思い出している。その言葉を、私はときどき自分の心に書いてきた。いま、その言葉を自分が書くことができるのか、できるものなのか、心で問い直している。