このごろやっていること、いま考えていること
ある公共の場所で草の世話をこの4年ほど続けている。1、2週に1回ほどのペースでその場所にかよっている。草の様子を見て、柵が倒れていたら戻して、雨が少ない時期には水をやって、増えすぎている草は短く刈って、日陰を作っている小さな木々をおりおり剪定する。
世話をしているのはその場所が再開発される前にその場所に居た草たちで、再開発後にもそれらの草が生き延びることができるように私自身が申し入れをした経緯があり、言い出した本人ということもあって自分が世話をしている。これまでもいろいろ難しかったし、この先のことは展望ができていないけれど、このまちで草たちが引き続き生きていける道が何か開けていくことを願いながら、いまは草たちがいまを生き延びるために作業している。
公園で小物の楽器を鳴らしている。こどもの頃からおりおり吹いてきたオカリナや、去年になって関心を持って買ったカリンバ、だいぶ前に買って商店街の遊び場で使ったりしていたラップハープ(箱型ハープ)などを、買い物や草の世話で出かけるときに持ち出して、大きな公園に立ち寄って人が少なめな場所で鳴らしている。林のそばや大きな木のふもとが多い。
オカリナではかれこれ8年くらいそうしているのでこのごろの話ではないけれど、いま何してる?と尋ねられたら、草の世話と公園楽器のことを話すだろうと思う。戸外で音を鳴らしているとそれなりにけっこういろいろなことがあり、音楽、特に公開の場で音楽をやっていくことについて、また公園や戸外での「音」というものについて、考えたいことがいろいろと出てくる。そうしたことを音楽関係のツイッターにまめに書いている。ある程度まとまったことが書けるときにはブログに書いていきたいと思っている。
緊急事態宣言の再々発出で日々の外出がはばかられるような時世だけれど、上2つのことは続けている。また、用事で出歩くおりに草や木を見て、そのことを書き綴るのも変わりなく続けている。自分の残る人生どういうことをやっていくか、やっていけるかとずっと考えて悩んでもいるのだけれど、草のことと音楽のことはもう状況的にまったくできなくなる時が来るまでやっていくのではないかという気がする。
***
年頭に本を頂戴したことを書いたけれど、いまだ感想をお送りできていない。一度読み通したときにはとてもよく書かれている力作だと思った。でも自分として感想をどう書いたらいいかわからず、ところどころめくって読み返しているうち、最初のときに理解したと思っていたことがよくわからなくなってきた。いまは逆に何がそんなにわかっていたのかほとんどわからなくなっている。それで、読書ノートを作って、読めたことわからないこと疑問に思ったことをかつがつ書きながら読み進めてみることにした。そういうぐあいで、感想をお送りできるのもそうとう先になってしまいそうだ。
その後、別の方から論文を頂戴した。その論文に関しては拝読して実地確認もして、ある程度の見通しを自分なりに持って感想をお送りできそうな気持ちでいるけれど、基本的には順番でお返事させていただきたいと思っていて、いまはまだ失礼をしている。
このブログで自分が比較的最近書いていた、ものものがある意味で「ひと」のように思えること、ものが「居る」ということ、等々については、けっきょくは自分がそういう存在を自分の都合で欲していて、そういう存在だと感じたり思ったりすることを自分の都合しだいでスイッチのように入り切りしているのではないのか、という疑問が出てきて、そういう自分がそうしたことを書くというのが、難しいというより「できない」ことなのではという気がしていた。いまも半分くらいそういう気がしている。
いっぽうで、そうだとしてそういう自分がそうした「存在」を感じること思うことは、それはそれとしてそういうことなのではないかと自分で認めて、その中で考えて書き綴ることもだいじかもしれないと、このごろは考え始めている。声高にそういう存在を感じるように叫ぶことも勧めることもまったく無理だけれど、感じたそのことは自分が生きている「この世界」では意味を成している。自分の都合というだけではない意味もあるかもしれない。そういう、そう感じていることをそのように証言するなら、それはまたどこかの「世界」で意味を成すようなことがあるかもしれない。
草が生きている。木が暮らしている。ものものがそれぞれにそこに「居る」。そのことを何らかの意味何らかの程度、重みをもって受け止め、その受け止めのもとで暮らしている人も、どのくらいいらっしゃるかわからないけれどいらっしゃるだろう。その人が私の書いたものに触れて、自分はこれとは違う、と思って御自身の考えを進めるそのきっかけにでもなれば、書いただけのことはやはりあっただろう。そう自分が思うのも「自分の都合」だろうという批判の視線は当然あるだろうと思いながら、書くことを再開するか少し考えている。
上に書いたようなことを自分がこの先になってどう思うかわからない。それでもいまはそう思う。そのときそのときに書けることを少しでもまた書いていきたい。
近況といくらかの望み
今年は年賀状をお送りするのが遅くなった。いまの時点であまり細かなことを書くのは控えるけれど、昨年の末から家で母の介護というか介抱をしていて、ようやくこのごろ少し状況が落ち着いた。昨年来いろいろなことが厳しく、福岡県に緊急事態宣言が出されたこともあいまって、この先は諸々さらにわからないが、日々のことを続けながらいくらかでも、自分でやってきたことごとを続けたり進めたりできたらと思っている。
大学時代の研究室同僚から著書を送っていただいた。むかしいろいろ一緒に議論をしたり、迷惑を掛けたりした方、というか研究仲間だった。彼が就職した後、単著を書くよう勧めたような記憶があり、出版がかなってとてもよかった。自分はいまでは学術書を読むことがめったになく、それどころか本をあまり読んでなく、読むのに時間が掛かりそうだけれど、ゆっくり拝読していつかお返事したい。
このブログにものものについての考えごとを書いていたけれど、書けなくなった。そのことではいまどうにも言えない気がしている。じっとしていたい。
自分のサイトからたどれる、「道の記」のツイッター(ブログは休止中)、楽譜絵(1枚楽譜)のブログとツイッターは継続している。音楽のツイッターはいまは休んでいるが、音楽のブログは書くことがあるかもしれない。ここのブログも、書き続けていた考えごとに関してはしばらく書けないと思うけれど、他のことは書けるときに書いて断続的に続けていけたらと思っている。
虫の声、花が咲くように
昨夜もこおろぎやかねたたきの声がしていた。昼にもかねたたきがゆっくりペースで鳴いていた。このところ暖かかったためだろう。虫の声を3、4か月くらい聞いているけれど、秋が進むにつれてだんだんと声が少なくなってきた。寒い夜には声がしない。虫の声がしないとさびしい。
いま庭には、しろはらやうぐいすなど冬の鳥が来ている。秋が深まるとやってきて、春まで居る。プランターで世話をしているイヌノフグリが少し前から花を咲かせ始めた。さざんかや菊の花も咲いている。
入れかわり立ちかわり、そのときどきの季節にその季節のいきものが現れたりやってきたりする。草や木の花が咲く。そうして季節が移ろってゆき、年が変わる。来年になれば、また同じ季節に虫の声がしているだろう。ただ、来年鳴いているのはいま居るこおろぎやかねたたきではないだろう。
虫の声というのは花のようなものなのかもしれない、と、ふと思った。そしてカテゴリーミステイクのような気もするけれど、その虫が居るということも、その鳥が居るということも、いきものが、ものが「居る」ということも、花が咲いているようなことなのかもしれない。であればおそらく人も、私もなのだろう。
鳩の巣 --「生き物嫌い」について少し考える
ばたばたという羽音がして、鳩がいるとわかった。窓の外で、鳩が上のほうへ飛んでいく。鳩はここにいるときはだいたい地面で何かついばんでいるが、いまは上のほうに長くいるようで、たぶん木の上に巣を作っているのだろう。
地面で何か食べているのはことさら気になることもないのだが、巣を作るのは気になる。ふんが落ちるのが嫌というのもなくはないけれど、それよりも、巣を作って子づくり子育てをするとなるとこちらで気を遣ってしまう。自分が何か日常のことをするとそれが邪魔になってしまうのではないかと。
冬鳥が来る季節になると、父が鳥の餌台を置く。水や果物を用意して、しろはらやうぐいすやめじろが来る。鳥たちがそこにいる分には私もしあわせな気持ちで見ていたりするのだけれど、鳥が餌台で食事をしているときは気を遣う。餌台は縁側の近くに設置されているが、家の中でも自分が動けば、食事中の鳥がさっと逃げてしまう。それが申し訳ない気がしてしまう。
虫が嫌い、という話をしばしば聞く。たとえは虫が襲ってくるのが怖いとか、何をするかわからないから怖いとか、そういう気持ちがあってのことが多いのだろう。でも、なかには、虫をつぶしてしまいそうで怖い、つぶしてしまうのがかわいそうで接したくない、ということもけっこうあるのではないかという気がする。私もいまだに蝶やとんぼをちゃんと持てない。かなぶんや蝉は、だいぶだいじょうぶになったのだが。
虫を、そして虫にかぎらずさまざまな生き物を、自分をおびやかしてくる他者、恐怖を与える他者、あるいは自分に被害を与える他者、悪者、「敵」だと思っているのでなく、だいじにすべき「相手」、いのちあるものとして尊ぶべき他者、倫理のおよぶ他者であると思っていて、それだからこそ、その「相手」にどう接していいのかわからず「相手」を傷つけたり苦しめたりしそうで、それが怖い、だから嫌い、ということが、あるのではと思う。
嫌い、という思い方をするかどうかはさまざまかもしれない。たとえば、苦手だ、とか、あまり関わりたくない、という思い方もありそう。そういう気持ちで虫を避けている人、生き物を避けている人も、けっこういるのでは。怖れたり、憎しんでいたりというばかりでなく。
今回はあまり気を遣いすぎずにこちらはこちらで居ようと思う。
飛び上がっていく鳩をちょっと追うように、鳩のあとでナガサキアゲハがひらひら舞っていた。ナガサキアゲハも窓の外のかぼすの木に卵を産みに来ているのだろう。
かたち
こどものころに作った人形(という言い方を自分ではしないけれど)がある。そのころ読んでいた漫画に出てくるロボットを真似して自分なりに作った。いまでは手のひらにすっかりおさまる大きさだが、あのころはもう少し大きかっただろう。
その人形が7月30日が誕生日。いまもおおむね毎年思い出している。いま、机の上でおだやかにしている。
こどものころには、いつかこの人形と別れるとき、手放すときがくるのだろうかと、不安に思うときがあったのを覚えている。あのころはいろいろなぬいぐるみやおもちゃに囲まれていた。あるときに親から、そろそろ片付けていいかと言われて、ぬいぐるみたちやおもちゃたちを引き渡した。そのときに、この人形は手元に残したのだった。
手放したものは戻ってこない。いまも思い出す。
いまもこうして、かたちとして残っているこの人形。
かたちであるということ、かたちがここにあるということ。としつきをこえて。自分も同じだけ過ごしてきた、としつきをこえて。
いまおだやかに、ここにいる。いてくれている。
草を踏んで
草を踏まなくなった、というお話を読んだ。私も日ごろなるべく草を踏まないようにと思いながら歩いているが、それでも踏む。
この前も、ふとしたことである草を踏んでいた。その草はいま踏まれると花がひとつ咲かなくなるおそれが高い。花をたくさんつける種類の草ではなく、悪いことをしたと思う。しかし、その草を踏まないときには他の草を踏んでいるのでもある。
そして、草を踏まないように道を歩いているとき、その歩いているのは草が生えられないようにした舗道だと知っている。その舗道の下にたぶん、芽を出せなかった草や木の種子がしずかに眠っている。
それでも草を踏まないようにと思いながら歩いているのでもある。
野の花を踏みながら詩をうたうな、と言われていたことがあったような気がするのだが、私は、野の花を踏みながら他の野の草を愛でている。そして思う。うたっているということは、そのうたっている姿を「外」から見るならきっと、野の花を踏みながらうたっているということであるだろう。
野の花を踏みながら詩をうたうな、と叫ぶ人の気持ちはわからなくない。その人の足元は気になるけれど、その人の足元はその人がその人の責任で気にする以外にはないのだとも思う。私の足元をときどき見つめるだけだ。
そして、うたっているときはただただ、うたっている。うたうこととはうたうことなのだ。そのこともときどき、心に思い起こそうと思う。
野の花はきっとただただ咲いていたことだろう。
ものが「いる(居る)」ということ
「道の記」のブログのほうでだいぶ前から、みちみち見かけた草や木のことを基本的に、そこに「いる」と書いている。植物は「生えている」「植えられている」と書かれることが多いだろうけれど、みちみち見かける植物は生えているのか植えられているのかその場では定かにわからないことも多く、そして生えているにせよ植えられているにせよ、そこに「いる」とは言えるだろうから。
その意味で書く場合、そこに「ある」とは私はちょっと書きづらい気がする。クスノキがある、ナズナがある、という言い方は、クスノキがいる、ナズナがいる、という言い方よりも「合っていない」ような気がする。
植物にかぎらず、ものものが「いる」ということについてこのごろ考えている。ふつうに言えばものは「ある」のだが、私がものものに面しているとき、ものが「いる」と言い表したほうが合っているように思える場合が少なからずある。
今季、しばらく前から部屋で電気ストーブを使っている。最大800ワットのむかしの型で、20年くらい前はよく使っていた。その後、暖まりがあまりよくないのでセラミックヒーターを、次にファンヒーターを使うようになり、そのファンヒーターも長く使ったのだが、とうとう煤が出るようになり、むかし使っていた電気ストーブに再登場してもらって現在使って暖まっている。 その電気ストープを隣に見ていて、電気ストーブがそこに「いる」みたいな感じがする。「ある」と言うのではこの「いる」感じを表現できていない。そういう気がする。
「いる」という言葉はふつう、人や動物に使う言葉であるだろう。自分から動くことができるもの(者)がそこにやってくるか連れて来られるかしてそこを占めているときに、「いる」と言うのがふつうだろう。そのときの「いる」には、その「いる」ものが生きていることが意味されているだろうし、ぜったいにとは言えない気もするがその「いる」ものに意志や意識があることが意味されているようにも思う。
植物が「いる」とふつう言わないのは、植物は生きているけれども場所を動かないので、ということもあるだろうし、また、植物は常識的に言えば意志や意識を持っていないだろうから、ということもたぶんあるのではないかというふうに私は思う。
そうしたふつうに言われる「いる」と、いまここで私が書いている、ものものが「いる」ということとの共通さや違いを、詰めて考える必要があるのかもしれないが、それを詰めるより先に、ものものが「いる」と自分が感じるその感じ方、あるいは、ものが「いる」その「さま」を、書き表していくほうが順番としてよいような気がしている。「道の記」のブログなどで書いている内容がある意味それに応えていると思うけれど、そのことに焦点を定めて書き表すこともしてみたい。
いまぼやっと考えていることだけで、書くのに数回くらいかかりそうだ。小さくまとまり次第、小さなまとまりごとに載せてみたい。