とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

体の不調が長引いていて、インターネットの読み書き全般をしばらく控えようと思います。このブログはもともとひんぱんに書いていませんでしたが、少し休みます。「道の記」はいまのところ、おりおり書こうと考えていますが、どこかで休みを取るかもしれません。

よろしくお願いいたします。

 

 

おととしだったか、春の七草パックに入っている芹の芽をポット鉢に植えて、それ以降ずっと芹を世話している。小さな虫に食われたりするけれど、虫を落として傷んだ葉を取って世話しているとまた復活する。

昨年の1月7日は芹をつまんだ。今年もそうしようかと考えたが、七草はやはり旧暦がいいと思い直し、そのままにすることにした。いま私の体調がすぐれず、芹はなんだかからだにはよさそうな気がするが、芹には頼らずに治してみようかと思う。

 

しかし新暦の1月7日は春の七草にはだいぶ早いと思うが、先日はなずなが咲いているのを見た。はこべも生えている所では早くから生えている。いま一般的に言われている春の七草にこだわらなければ、春の草もいろいろと生えている。春の草は多くが秋から生えていて、秋のうちに花を咲かせたりもしている。

きょうは天気はすぐれなかったけれどあたたかかった。蜘蛛などの虫も出ていた。春はそれでも遠い気がするけれど、ぼおっとした頭で、やっぱり春はよさそうだと思う。

 

 

年の瀬の文房具店

 

きょうで閉店なさる、商店街の文房具屋さんに出向いた。前々からそのお店で見ていて買おうかどうしようかと考えていた製本テープを買おうと。

 

お店はお客さんが入れ替わり立ち替わり。近くの方々が挨拶を兼ねて来られているようす。私くらいの年配の方が、こどもの頃からお世話になりましたと店主さんはじめお店の方々に挨拶をなさっていた。70年だからそういう方も来られてますよ、と、お店の方がおっしゃっていた。

 

ラベルシートなど実際必要なものをあわせて買おうとしていたが、消耗品でなくてずっと残るものを買いたいと思い直し、店内を見て歩いていたら、雲形定規を見つけた。いま私は手描きで、スケッチのような楽譜(というか「楽譜絵」というか)を描いている。楽譜でスラーなど曲線を書くのに雲形定規を使うという話を聞いていて、しかし雲形定規は高いので手を出さずにいたのだった。もう雲形定規の箱を手に取っていた。

 

このお店ではこどもの頃に虫眼鏡を買った記憶がぼんやりとある。文房具屋さんは近所に多く、この文房具屋さんはやや遠かったこともあってこどもの頃の私はたまに利用するくらいだったと思うが、だんだんとほかの文房具屋さんが閉店して、いまでは近所で通うのはこちらのお店だけになっていた。

 

むかし日記帳に使おうと買った厚いノートの、同じデザインのものが1冊あった。いまはコンスタントに日記を書いていず、そうした厚いノートは使わなくなった。その買ったノートのほうも、たしか日記ではなく別の用途に使ったと思うのだが、いまどこにあるだろう。

 

いろいろなことを次々思い出した。以前に絵を描いていた頃、スケッチ用の鉛筆というものをこのお店ではじめて見て、購入したのも思い出した。その鉛筆も買うことにした。画材が多く揃えてあるお店だった。油絵用品も多かった。御主人さんがそういう美術関係のつながりがおありだったのか、お得意のお客さんがいらっしゃったのか。画材類はほとんどが売れてなくなり、棚にいくらかのオイルの瓶が並んでいた。

 

風邪なのに長居をしてはご迷惑と思い、買い物を引き上げることにした。御主人のほうから、お世話になりました、とご挨拶してくださった。さきほどの年配の方と同じに、私もこどもの頃からお世話になりました、と、お礼を申し上げた。後ろではひと世代若い方がレジを打ち、私の後ろではさらにひと世代かふた世代若いこどもさんが店内を歩き回って遊んでいた。私も店の育ちだった。家業の店が閉店した日もこうして家の者々みな店に出ていたのだっただろうか、と、思い起こそうとしたけれど、その景色をすぐには思い出せなかった。

 

領収書を手書きでいただいた。あらためてお礼を申し上げて、お店を後にした。出口を出て立ち止まって振り返っていたが、お店に次の方々がやってこられたのでその場を離れた。お店はきょういっぱいはきっと、送るお客さんでにぎわうことだろう。これまでありがとうございました。

 

***

 

さきほど、日の入りを見送った。この十数年はずっと出先で大晦日の夕日を見送った。たまたま風邪になってしまい、今年は家での見送りになったが、家から日没を見届けるこの景色も自分にはだいじな景色だったと思い出した。5時過ぎに山に沈んだ夕日は、雲のたなびく上空に向かって、いくつもの光条を投げ上げていた。

 

 

最後のわからなさ

 

人が亡くなる前、まわりの人と意思疎通がきかなくなった後、そしてそこから先、その人が何を感じ取り何を思ったか、まわりからはもうわからない。

伝わってくるものがある気もするけれど、そしてそれを信じたくもなるし信じることが大切であるかもしれないけれど、わかるかわからないかということで言えば、やっぱりわからないものだと思う。

 

その最後のわからなさ、その人がその人として(一人称で)亡くなることのわからなさ。そのわからなさが、生きていることの、命と呼ばれる何事かの、最後の最後のいちばんの重しであるように思う。思うというより、重い。

その人の重さ、命と呼ばれる何事かの重さは、さまざまなことのうちにあると思うけれど、どうあってもその最後のわからなさがあることが、そしてそのわからなさに自身として立ち向かっているその人がいるということが、最後の最後にその人の重さを知らしめてくる。

 

そのような最後のわからなさに自身として立ち向かうのは、いわゆる「人」だけではないにちがいない。生き物はまちがいなく誰も、その最後のわからなさに向かう。生きていないものも、壊れる可能性を抱いているものであるなら、やはりその壊れることのわからなさに向かっている存在なのではないかという気がいくらかする。

そのことはむしろ、人が亡くなる前の最後のわからなさから告げられているようにも思える。

 

その、最後のわからなさのことを、やはりときどきは思い起こすことがたいせつだという気がする。

 

 

システム【追記あり】

 

操作をまちがえると取り返しのつかない事態になるシステムは、システムに問題がある、システムとして問題がある、と考えなければいけないと思う。操作者のせいにしている場合ではなく、システムを改善することを考えなければいけない。

 

それ以前に、はなから無理のあることをシステムの力に頼ってしようとしていたのではないかと考え直す必要もあるかもしれない。ひいては、そういうシステムに依存している暮らしのあり方を考え直す必要も出てくるかもしれない。

 

取り返しのつかない事態が繰り返されているのだから、そのシステムに依存している立場の私らにとっては、少なくとも「考える」ことが必要だろう。

 

(続く自動車事故の報せを聞いて。それまでにもあまりにもたびたび聞いていたのに)

 

 

【追記 2019年5月8日】

この記事を書いたのがおよそ半月前だが、この半月の間で何かがよくなっただろうか。この半月の間にも多くの自動車事故が続き、それらの事故をめぐっていろいろな人が発した言葉を見かけたけれど、依然として、操作者を悪者にして済ませようとしている論調(語調)が強いような、むしろよりいっそう強まっているような印象を受ける。

そのことまで含めて、「自動車交通」というシステムの上に私らが安住していることそのものの問題が、やはり考えられるべき問題なのだという感が私には強くなってきた。自動車交通システムを前提にして私らが生きて暮らしていくこの社会という「システム」の問題だと言うほうがよいかもしれない。

微細なことからでも、個人でできることからでも、「システム」を調整したり手直ししたり、できるところから着手したほうがいいのではないか。遠い道のように思えても。

 

道は走るためよりも前に、歩くためにあったはずだ。

 

 

言葉という刀

 

いつぐらいからだったかはっきり覚えていないが、また必ずしもそのように実行しているわけではないけれども、いつからか私はものを書くとき、ものごとが「わかる」ためでなく「わからなくなる」ために書く、という意識を持つようになった。

たとえば、すでに世間でよくわかられている事柄を、果たしてほんとうにそうなのか、そうであると言い切っていいのか、疑問が残る状態にいわば差し戻すような、そういうものを書きたいと思ったりした。

ひところ短詩を書いていた(やめたわけではない)。短詩は意味が散文のようには確定させがたい。むしろ特定の意味を結ばないように、意味が「散乱」していくように、書いていた。そういうものを書くことが、そのときの、そのころの自分にとっては、意味あることだった。いまもいくらかはそう感じている。

 

 

言葉は、どうしても「切断」の機能だったり作用だったりを果たす。「わかる(分かる)」というのは切断の結果である。しかし、ものごとを切断するということは、そのものごとをそのままの状態では受け取らない、受け容れない、ということでもある。

 

 

ある切り方で切られたものごとを、別の切り方で切ってみせることで、その切り方だけではないということを呈示することはできるのかもしれないと、思ってきたし、いまもある程度そう思っている。

しかし、それもやはり「切断」することではある。

 

 

言葉は物ではない刀である、ということだろう。

 

そうした、物ではない刀である言葉を、私は振るか振らないか自分で決めることができるはずだと思っている。

自分としては刀はいつでも振り回すものではないとも思っている。

 

 

だいぶいろいろな言葉の刃に当たった。対策として、その刃そのものを自分の刀で切り分けることもした。

それよりも大事なことは、それらの刃が私のほかに切り分けた、特に、切って捨てたほうのものごとの切れ端を、見つけて、拾っておくこと、印をつけておくことだろう。

 

できればもとの姿へと差し戻したいけれども、それは私にできることなのかどうか。いまは、切られた者として、きっとどこかに同じように切られたものがある、いるのだと、思っていようと思う。

 

 

ペンシル

 小学3年生のときだったと思うが、当時名古屋にいた親戚を旅行で訪ねていたときに、名古屋のデパートで、メカニカルペンシルというものを買ってもらった。芯をボタンで繰り出すいわゆるシャープペンシルで、それまでそういうものを知らなかった。ボディが透明で、とてもかっこよかった。

 そのペンシルを数年使っていたが、壊れたか無くしたかで、新しいペンシルを使うようになった。そちらは黄色のプラスチックで、何かキャラクターの柄があったように覚えている。それを中学生の頃まで使った。そのペンシルも大事にしていたのだが、宮崎の旅行に持って行って、どこかで無くした。父に頼んで、落としたのではないかと思われる場所をすべて回ってもらって探したが、見つからなかった。

 その後に使い始めたペンシルはすぐ壊れてしまい、それ以降使ったペンシルはあまり思い出せない。

 

 いま私は、透明な軸のペンシルを使っている。ものを読み書きするちゃぶ台の上にいま置いてある。これは長く使っている。10年は超えるのではないかと思う。安い物だが、よく壊れずにいてくれると思う。

 

 いま自分が日々接しているものもの、この家も含めて、いつかは手放すとき無くすとき壊れるとき離れるときが来る。先に私がいなくなることもありうる。どれだけ想っていても、そうなる。そのことをいまあらためて、突きつけられるようにして考えている。

 

 ジャンケレヴィッチが書いていた、「生きた、愛した、それだけだ」という誰かの言葉を思い出している。その言葉を、私はときどき自分の心に書いてきた。いま、その言葉を自分が書くことができるのか、できるものなのか、心で問い直している。