とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

熱さの中の草

 数年前の夏、大学の授業で「たんぽぽになってみる」というワークショップみたいなことをやったことがある。みんなで屋外に出て、たんぽぽが咲いている芝生に来て、受講者の学生に、やり方はどんなでもいいので、たんぽぽになったつもりになるようやってみてくださいと言い渡した。それぞれの人がそれぞれのやり方で、土手に腰を降ろしたりたんぽぽをさわったり、しばらく時を過ごした。自分は用意して広げていたビニルシートの上で仰向けになった。日ざしも暑かったが、地面が熱かった。この熱さの中でたんぽぽは生えているのかと思った。一面が空だった。
 今日、ノートを持って筥崎に出た。今書いている論文が座礁して、草と相談したくなった。ノートを持って筥崎を歩くのは初めてだった。道沿いの広い空き地(管理地)の、よく写真を撮っているアレチハナガサの所で、ノートを持って、立ち止まってしばらく考えた。ふつうに歩けば20分くらいで通り過ぎる道を、今日は1時間20分くらい掛かって歩いた。
 家に帰ってから熱中症みたいになって少し寝込んでしまった。今日は最高気温が35度くらいになったらしい。スポーツドリンクなど飲んで、休んで、夜遅くなってようやく調子が良くなってきた。
 この熱さの中を、草たちは生きている。自分は寝込んでいることができるし水も飲める。草は、休むことができるのかどうか知らないが、自分で適量の水を随時補給することはたぶんできない。日陰に入ることもできない。マイクロなことは根や葉でいろいろやっているのかもしれないが、ひとや動物が「できる」様々の方略を植物はできない。「できない」というより、そういうことが植物の生には「ない」のだ。この熱さの中をそんなふうに生きている。それはすさまじく強いと思う。それが草にとってふつうのことであれ、どうであれ、すさまじくすさまじく強いと思う。
 
 この強い草たちが、工事の重機でなぎ倒されるというのが、信じられない気がする。
(強いというのは、いったい何なのだろう。)