とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。


 子どもの頃、近くにいくつも空き地があった。国道沿いの広い空き地で友だちと自転車で走り回った。なずながいっぱい咲いていた。他の空き地で、捨てられたか何かの子犬をみんなでかくまったことがあった。その空き地にも、なずながいっぱい咲いていた。なずなを鳴らしてみたことはなかったが、今でもなずなはいちばん好きな花だ。
 広い空き地がほどなく大きな会社の倉庫兼営業所になった。子犬の空き地はすぐに家が建った。なずなは、このごろは砂利の駐車場の脇に生えていた。でもその駐車場だった場所も柵ができた。
 国道沿いのその広い空き地だったところの角に、昔、大きな松の木が一本あったと、近所のおばあさんから聞いた。知らないだろうね、と。


 福岡都市圏の水の安定供給を目的としてかなにかで、背振山麓にダムが造られようとしている。福岡県の那珂川町五箇山(五ケ山)、佐賀県の(当時)東脊振村小川内の集落がある一帯が建設予定地になっている。むかし背振に登るときに小川内を通って、雑貨屋さんで買い物をしたりしていた。計画を報道で知ったときにはまさかほんとうにそんな計画が動くとは思わなかった。いろいろあって背振に登ることが少なくなって、先日ひさしぶりに小川内の道を通った。集落がなくなっていた。
 神社があって、小川内の杉という佐賀県の天然記念物に指定されている大きな杉の木がある。道を挟んで向かい側に、見事な樹形の欅の木がある。この道は集落と小学校との間の道で、この道を通う子どもたちの目にこの杉や欅や、他の木や草花がきっと映っていただろう。杉が高くそびえ、メタセコイアが赤く染まり、夕日に欅の色づいた葉が照りながら散っていた。



 草も木も、そのまち、そのむらを生きている。
 その土地のことを、きっと草や木は知っているし、人はきっとだれか、その草や木のことを、知っている。

 ただそれだけのことを、思い知るため、思わせ知らしめるために、されるべき仕事、なされるべきことが何かある。まだわからない。