とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

デリダは「テクストの死」ということを考えただろうか

散種が終わる、ということを、考えただろうか。


失われたテクスト。それは、はじめから書かれなかったわけではなかった。もちろん、無、でもない。失われた。

失われたテクストからはもう、散種が起きない。意味が「そこから」生まれない。

しかしそうとわかることは実際どれほどあるのだろうか?何かが起きない、ということは、そうとわかることができることなのだろうか。そんなことはほとんどないかもしれない。ありえないかもしれない。ありえなさそうでもある。まして、そのことから、あるテクストが失われた、とすることは、できなさそうである。

しかし、そうとわかることがもしまったくない、またはありえない、として、それはテクストが失われることがないことの証左にはならないだろう。


世界ではいまも意味が生まれ続けているだろうけれど。
しかしその意味の発生、置換、その波打つ水面には穴があいている おそらく、無数に