とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

散太

 NORADが今年もサンタクロースを追跡するらしい。考えてみると、サンタクロースほど散種的な存在(存在者?)もなかなかないように思われる。サンタクロースの飛跡は、追跡することでしか現われないだろう。しかし追跡したとして現われるものだろうか?(NORADは過去に追跡に失敗したことはないのだろうか。)そういえば、デリダは"s"の字が散種的だと述べている。sは散種するらしい。何を言っているんだろういったい。
 いまの子どもたちがサンタクロースをどう表象しているだろうかと時々思うが、私はサンタさんは1人だと思っていた。NORADが追いかけるサンタはどうだったか忘れてしまったが、フィンランドノルウェーからのニュース映像を見ると、サンタは何人も何人もいて、分担して世界中を回っているようだ。そういう映像をちらっとでも見ると、いや見なくてもそういう映像が流れているこの世の中では、サンタクロースはたくさんいる、あるいは「サンタクロース」とは個人名ではなく何らかの一般名だという、そういう感じで受け取っている子どもも多いのではないか。実際、サンタの人口は何人ぐらいなのだろう。この時期に各地に現れるいろいろな、比較的素性の明白な、アルバイトやボランティアのサンタまで含めると(というか、サンタクロースと、そういう人たちとを区別する明確な基準は、たぶんない。ありえないだろう)、世界にはものすごい数のサンタが存在することになるだろう。しかも、そのすべてが顕現的であるわけではない。
 クリスマスに乗じて活躍するサンタクロースを、(名前からしてどう考えても聖人であるにもかかわらず)好ましく思っていないキリスト教の大宗派があると聞く。サンタクロースはトルコの聖ニクラウスだとも言うし、サンタの起源は北欧の妖精だとも聞くし、いま流通しているサンタの赤服のイメージは某清涼飲料水メーカーの広告から来ていると言うし、もはや正体不明である。いかなる伝統の上にいるのか、実際サンタクロースとは何であるのか、そういった「根源への問い」をかき消さんばかりの勢いで、サンタは増殖し、街にあふれ、しかもそのすべてが顕現しているわけではない。
 デリダの散種と、ドゥルーズの内在(ひとつの「生」)とは、ある種の関係にあると私はみている。しかし、どういう関係なのか、わからない。サンタは散種し、ひとつの生を生きている。NORADに追跡され、ひとつの?飛跡を描きながら、ニュースに姿を見せながら、街に現われながら、プレゼントしながら、そのようにはけっして現われないままの(さらなる)非−有限数の、そしてひとつの、散らばった生を生きている。今年の私にはサンタさんは生きる散種である。クリスマスまでには論文を書きあげたいと思う。