「もう人間は信じない」
たぶんそのときまでは列車の座席だったと思うが、そこにすずめばちがとまっていた。わああぶないと思っていたら、友だちがスプレー殺虫剤を持ってきた。殺虫剤、いや殺さなくても逃がせば…と思ったが、他の人もいる屋内なので、仕方ないかもと私も思った。すると友だちは私に目掛けてスプレーを発射した。わっやめて、と言ったと思うが、友だちはにこにこしながら私にスプレーを当て続けた。しだいに息が苦しくなり、立っていられなくなった私は這いつくばって、ひとこと「もう人間は信じない」と口に出した。そこで目が覚めた。
目が覚めて、私は目が覚めるまで何も疑っていなかったと気付いた。「もう人間は信じない」のひとことも、友だちが冗談で私にスプレーをかけていて、私もなかば冗談でそうつぶやいたぐらいの気持ちだった。そうして私は死んだのだ、と思った。夢が終わったのは、私がそこで死んだからだ。私は死ぬまで=夢が覚めるまで、私が殺されたのだと知らなかった。ほんとうにこういうことが起きても、私は、死んだ後でないと自分が殺されたのだとわからないかもしれない。
だから、私は殺されながらも殺されていると気付かないまま死んでいくのかもしれない。
殺されながら、殺されているとわからずに、でも「もう人間は信じない」とひとことだけ思う。そのように「もう人間は信じない」と言わんばかりに死んでいった生き物のことを思う。
いま、桜が伐られようとしている。桜は誰か人によって挿木されて育ち始め、育てられ、そこに植えられた。そして人に愛でられ、世話をされて生きてきた。私が桜であったなら私は人々が私を愛していると信じただろう。
木は、伐られるときに何かわかるだろうか。何度も考えたけれどわからない。何も「わからない」まま伐られていくのではないだろうか。しかし、そのときに「もう人間は信じない」とは思わないだろうか。あの夢を見た私は、思わないとはもう言うことができない。
私は、夢の中の「私」が発した「もう人間は信じない」という言葉と、その言葉を発しながらただのみじんも疑いを持たなかった、「信じていた」ということを、この先ときどき思い出すだろうと思う。そして、そのように生きて死んだ誰かがきっといただろうことを、ときどき思い起こしながら生きていくだろう。