とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

「いのちの観察」

 
また夢の話だけれど、中学生の何か発表大会のようなものを会場で聴いた。ほとんどの子がふつうに報告的な発表をした中で、ひとり、自分が作った物語を語る男の子がいた。その発表が、中学生とは思えないような落ち着いた態度と声で壇上から語りかける、「発表」とはもはや呼べないような迫真の(いや、真の)朗読で、聴いているということを忘れていつのまにかその子の語る物語にすっかり没頭していた。その子の「発表」は審査の先生方も感服させた様子で、特賞はその子に与えられた。
なぜかその後で私はその子と話す機会があった(私は審査員のひとりだったのだろうか)。私はその子の物語を聴いた感想をなんとかかんとか言葉にして、それでもこう言うのは当たっていないけれど…という感じで苦心して伝えようとしたのだけれど、その子は壇上にいた時と変わらない落ち着きようで私の話を聴くと、私にひとこと、「あなたは『いのちの観察』をなさるのですね」と言った。
彼が言った「いのちの観察」という言葉の意味は、私が自分の言葉になりにくい思いを伝えようと自分の思いをメタ的に言語化しようとした、そうしたことを指して言ったのだろうと私は思った。彼がそうした「いのちの観察」についてどう思っているかは彼の言葉からは定かでなかったけれど、何かが伝わってきた。彼は私の「いのちの観察」を、そのようなものとして受け止めてはいたけれども、そして私がした「いのちの観察」が心底からの真摯なものだったと受け止めて(くれて)いたようだけれども(「いのち」は観察の対象というだけでなく観察の営みが発するところそのものでもあるのだと)、自分自身はそうしたことから少し遠いところにいるようだった。
彼が壇上で語ったこと、壇を降りてから話したことは、少なくともそうした「いのちの観察」から発したものではないと私には感じられた。それは彼が「いのちの観察」の仕方を知らないとかその習慣がないとかのためではなく、かといってそうしたことを快しとしていないわけでもなく、ただ、メタ的であることなくどこからかまっすぐに発したことだけを語り、話しているようだった。そしてそのようなことを考えているのは彼ではなく私のほうであるのだった。
 
彼が私に言った「いのちの観察」という言葉を、それからときどき反芻している。私は「いのちの観察」をしているのだろうか。していくのだろうか。私の言葉は、「いのちの観察」から発したのではない彼の言葉の隣にいられるだろうか。