とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

自分地誌

何年前だったか忘れたが(10年にはなるだろうか)、ゼミの発表資料で「自分地誌」というアイディアを書いたことがある。「自分史」が自分の人生で体験した出来事の歴史的記録なら、自分がいろいろな場所で出会った地物の地理的記録、「自分地誌」というものがあっていいのでは、考えられていいのでは、と思ったのだ。


記録をしないでも、ひとは自分がそこここの場所で出会ったものものをどれほどかは覚えていて、思い出して訪ねたり、そこを訪れたときに見て触れて思い出したり、あるいは覚えていることを忘れていても何かのときにふと思い出したりするものだと思う。その、そこにあるもの=地物を、見知っている、という言い方ができるだろう。


その、見知っている地物のこと、その地物と自分との関わりやその地物との間に起きた出来事、そうしたことを、何かのかたち、何かの仕方で記録したなら、それは「自分地誌」と呼べるだろう。他の人が読めるものであることもあろうし、自分しか読めないものもあろうし、地図に書き込んだり日誌のように書き綴ったり、いまなら電子的な手段で記録できそうでもある。


数年前から、自分が歩いた道で出会った木や草などを、地図に書き込んでいる。見たものすべてではなく、見て心に留まったもの、その道を通るたびになぜだかいつも見ているもの、そういう木や草などを書き込んでいる。また、こんな木を草を見た、この日はその木その草はこんなふうにしていた、といったことを、ツイッターに書き込んでもいる。そういえばそれは「自分地誌」だ、とこのごろ気が付いた。


自分が地図に書き込んでいるのはもっぱら自分のためのことで、いつか地図を見て思い出せるように、ということもあるが、それよりもひとつひとつの出会いを、出会った木や草のことを、書くことそのことが、自分に大切なことになっている。何の役に立つわけでもなく、ただその木その草のことを書く、心にとどめることそのことが、自分には大事なことに思える。


「知っている」には、「(利用可能な、有用な、一般的普遍的な)知識を持っている」ということもあれば、「その誰かその何かをそれとして知っている」ということもある。後者は必ずしも自分や他の誰かの役に立つ「知識」ではないかもしれないが、その誰かその何かを私が知っていること、その誰かその何かがある・いること自体が、何の他の価値に訴えなくとも大切である、ということがある。


そういう「その誰かその何かを私が知っている」ことが、「知」ということが言われ論じられもてはやされる中で、見過ごされ見落とされて、あたかもそういう「知っている」はどうでもいいことのように思われているようなふしがあると感じる。いやそもそも何とも思われていないのではないかとも思う。


ことさらに「知」の範疇の中で言われ論じられもてはやされる必要もないだろうけれども、そのような「知っている」が顧みられないところでは、その誰かその何か、その木その草、それを知っている私、そのような他の「私」たち、そのひとりひとり、ひとつひとつを、顧みなくなっていたりはしないか。


出会って知った、知っているあの木あの草、あの人のことを、私は自分の心にあたためていたい。そして、そういう「知っている」ことの、他の何の価値に訴えなくとも大切なその大切さを、ときどきは書きたいと思う。何かのかたち、何かの仕方で、書くことができるなら。