とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

音楽教室での楽曲使用が著作者の「演奏権」に触れるとすると。

 
音楽教室での楽曲使用が著作者の専有する演奏権の範囲に含まれるとなると、著作者は音楽教室での楽曲使用を許諾しないことができるということになる。その場合、もし世界中の音楽著作者が自分の著作物である楽曲を音楽教室で使用することをいっさい許諾しなかったら、音楽教育はどうなるだろう。
 
公教育がやっている音楽教育は(大学や特別なコース・部活動を除くと)ふつうは「基礎的」な範囲にとどまる。独学好きな私が言うことではないけれども、いま世に出回る多くの音楽を演奏できるようになるには営利をともなう音楽教育を受けるのがふつうではあるだろう。
 
著作者が営利をともなう音楽教育における楽曲使用を許諾しないことができるのであれば、原理的には(独学するか公教育にあくまで頼るか無償で個人的な手ほどきを受けるか著作者自身から教授いただく以外には)音楽の演奏技能を誰かがあらたに習得することができなくなる可能性が発生することになる。古典楽曲はともかく、現代の音楽に関してはこの可能性から抜け出せない。
 
これは原理的な話だけれども、この「原理」が示唆しているのは、営利だからといって音楽教育における楽曲使用に著作者(著作権者)の許諾が必要だとすると、それは音楽を演奏するという文化、つまりは音楽という文化を、持続不可能にする方向の話になるということ。「音楽教育」に制約を掛けるとそれは社会の中で音楽文化を弱体化・縮退化する方向に働く。
 
音楽教室から著作物使用料をとると音楽文化がダメージを受ける、と多くの人が懸念を述べているのは、この問題の根本的な自己言及性を直観的にだったり論理的にだったりわかっていてのことなのだろうと思う。