とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

いのちの区別

 
 
いま交わされているある議論の中の声を読んで、世の中には、「いのち」の中に区別を引いて、こういう「いのち」は大事、こういう「いのち」は大事でない、という態度で生きているひとがやっぱりけっこういるのではないかと思った。
 
それとは違う態度として、「いのち」はどの「いのち」も大事で、ただ現実上しかたなくある種類の(あるいはある属性の、ある特定の個体の、いろいろあるだろう)「いのち」に対してはそれを奪って生きる、という態度もあると思う。
 
後者の態度は、前者の態度をとるひとからは理解しづらい、あるいは容認できないものかもしれない。前者の態度をとるひとは、前者の態度にある、大事か大事でないかの「区別」が厳然としてあるのでなければ、人間を含むどのような「いのち」も奪われるおそれが出てくる、と考えるのではなかろうか。
 
いっぽう、後者の態度をとるひとからは、前者の態度だと「区別」の仕方しだいでどのような「いのち」でも簡単に奪われるのではないかという懸念を持たれるのではないかと思う。後者の態度はどんな「いのち」であれ「大事」なので、どんな「いのち」でもそれを奪うことにためらいや抵抗や心痛を抱くだろうし、無駄に「いのち」を奪うことは極力しないということになろうと思う。
 
「区別」の線は引き直されうる。かりに「区別」のこちら側を「人間」として(「区別」する場合でもこちら側に「犬」「猫」そのほかいろいろな「いのち」が入りうると思うけれども、話を見えやすくするために「人間」の話にする)、おなかのなかの赤ちゃんが「人間」かどうか、いわゆる「脳死」のひとが「人間」かどうか、おそらくひとによって考えは分かれているだろう。
 
社会的に設定・構築されたカテゴリーで「人間」を仕分けすることがある。特定の国のひとたちを「鬼畜」と呼んだ歴史が、私が住んでいる国にはある。いまその線はその当時の位置にはないと思うが、ひとによっては、その線は別のどこかに移動しただけになっているのではないだろうか。
 
「区別」の向こう側にいる誰かの「いのち」を握るとき、「厳然たる」「区別」の向こう側の「いのち」は「大事」ではないのだからと平気で握りつぶすことができるか、どんな「いのち」でも大事なはずだと思いながら握っているか。
 
その違いは、かならず、いつかどこかで、誰かひとりのひとの「いのち」に返ってくると思う。いや、これまでにその違いで、生き延びたひとがきっといたはずだと私は思う。
 
そして、「いのち」とは、こちら側でそれを大事にするしないの問題を超えて、向こう側で「大事」なものであるのではないか。「いのち」とは、こちらに「ころすな」と呼びかけてくるものではなかったろうか。
 
いや、あなたは、そう呼びかけているのではなかったか。