とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

長考

このブログのタイトルを変えて「長考篇」としてみた。
 
これまでにお世話になった方々、目をかけてくださった方々を思うと、なにか理論的な、少なくとも移転可能(転移可能)性がある程度見込めるような、そういうものを書けないかとも思うしそういう方向の「考え方」をしないとという気持ちもあるけれど、いまは自分の体験を書き綴るしかないし、やはりそうしたいと思っている。考えることメインのこのブログではどのようなことが書けるかわからない。長考が続くかもしれない。
 
 
道で何か誰かと出会った体験は、その出会った相手がその体験のそこに「いる」のだと感じる。そこに「いる」のが出会った相手「当人」では(もはや)ないのだとじゅうじゅう理解した上で、それでもそこに「いる」その感覚は途切れない。
相手がそこに「いる」ことをその相手抜きで語るわけにはいかないように思う。場合によっては、語ることを差し控えるということにもなるだろう。
 
 
そうした体験を書いているのは、あのときの相手=彼らとの出会い、彼らがそこに「いる」ことを、いや、あのときあの場所に「いた」ことを、人間の文化のなかに刻み込みたいという気持ちから書いている、と言ったらいいのか。
私は彼らと会った。彼らを見送った。そのことは私の、せいぜい言えたとしても私と彼らとの間の、できごとだ。
ただ、私は、そのできごとが私の一存でもなければ彼らの一存でもない、かといって「偶然」と言うのではなにか済まない、文字どおりひとことでは「済まない」ことであったように思う。
 
そして、おおげさでもなんでもないつもりだけれど、そのできごとのうちのいくらかは、とりわけ見送ったできごとは、人間にとって、人間の「社会」「文化」にとって、あるいは「人類」というものにとって、「済まされない」ことであるだろうと思う。
(そのできごとに関わって何かを働いた誰かにとって、というよりは、むしろ、(ひとつだけ例に挙げて言えば)「こういうものごとには価値がある、こういうものにはない」といったような一般論を繰り返し語り続け支え続ける「社会」、「文化」、その基盤たる「人類」にとって。)
いまから、いまさら、どうすることができるか、どうすることが「よい」ことなのか、そのようなことを考えることも正しくないのではないか、そうも思いながら、ただ、「済まされない」ということは変わらない気がする。
 
 
だから、祈念碑に彫り込む銘文のようにして書いている。私の仕事は、いつまでの仕事かわからないけれども、そういう、私の体験で私と出会ってくれた相手のことを祈念する、銘文を彫り込むことだと、いまは心している。