とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

環境記録

 
 
 この豪雨で各地の被害を聞き、以前に筑後川の水害の状況を語ってくださった方のお話を伺いながらメモをとっていたのを思い出して探していて、いくつかの別のメモに行き当たった。そのメモの1つに「環境記録ということを考える」というものがあった。しばらく前にこのブログに「自分地誌」ということで書いたものと内容が似ているが、そこで書いていないことでいま多少心に思い当たるものがあり、載せてみようと思う。
 2008年1月のメモ。10年前。自分では、あのときすでにこういうふうに考えていたのかと、その後の自分の不分明さを情けなくも思った。
 
 
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環境記録 ということを考える。
(この場合の 環境は 言うまでもない身のまわりのことである)
 
 
 石垣島?の出版社の人が 以前東京から戻ってきた頃毎日気がついたこと(花が咲いた鳥が鳴いた)をメモしていて、ある時思い立ってそれを手帳にして出版した という話を 新聞で読んだ。
 
 このようにして毎日、身のまわりで起きたことをメモしている人はそれなりにいるのではないかと思う。(自分もいくらかそうである)毎日きまってメモすると決めているわけでなくても、日記にその日見た花のことなどを書く人もいるだろう。中にはエッセイや随筆を書いたり、それを投稿したり出版したりする人もいるだろう。今ならブログにのせるという人も多いだろう。
 
 そうししたことを書きとめる ということは、身のまわりのことに心がとまっていることであり、それはそういうことのない人にくらべて(そういうことのない人がやはり多くいると思う)なんらかの consciousness があるのだろうと思う。
 
 いっぽうで、そういう人でも、道でお向かいの人と会ってあいさつしたということをメモはしないのではないかと思う。メモする人もいるかもしれないがそれは何か特別なことに思える。
 
 また、毎日見る木のことを今日もこの木を見たとメモする人もそういないだろう。花や紅葉のことは書く人もいるだろうが、(変化がなければ)毎日目にする木のことを逐次メモする人はそういないだろう。
 
 しかし、そうしたことをいざ書くなら、書けるだろう。子どもたちにノートを渡して、毎日目にするものをぜんぶ書くように言ったら、(楽しくなれば)通学路沿いの木や看板や通り道のおばさんのことを書く子もいるだろう。大人もその気になれば書かなくはないだろう。それにしても書くことがない人もいるだろうけれど。
 
 そのように書かれ、書かれうる(その人の)身のまわりの世界物は、たぶん環境が改変を被るときにダメージを受ける(壊れる・無くなる)ものではないかと思う。そのような境位にそうしたものものはおかれてあり、生きているのだと思う。そして、書かれなかったものものはなおのことそうであろう。
 
 名所・名跡・名木・…と呼ばれるものがあり、それらは(たしかに)なにかの意味あいにおいて価値があるのであろう。それは良いのだが、そういう「名…」とされなかった存在物、世界物はいわば無名にとどまる。名づけられる(名がある)ことが良いのかどうかは考えものだが、「『名…』とされなかった物に価値がない」となるなら、それは明らかに誤りであろう。人が身のまわりの物について何か書く/書きうるとしたら、そのとき書かれる/書かれうるものは、もし「名…」と冠されないまでも、何事かある何物かなのである。そのような境位にある物なのである。
 
 そのように、書く/書きうるような、まなざしで物を見る、そのように世界の物々と面しているということをとても貴く思う。それはなにかとても特別な、大切なことである。ひとり記号に浸っていたり、仲間うちでガヤガヤやっていることを*ある種*超えている。またそれは、人間に対する環境を、エコシステムとして捉えることとも*ある種*異なっている。ひとりの人がひとつの人格であるように ひとつの物が人格物である ということであるかもしれない。
 
 自分は(ひとりの人として)そのように書き、書き続けることと思う。そして、そのように書く人、書いている人、書かれた物、書かれうる物、そのように書かれうること、すなわち何かの世界物が誰かによってそのように想われていること(意識されているかどうかはともかく)を 支持したい。
 
 
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 もう1つ、やはり2008年に、ある土地を訪ねて歩いたときのことを帰りの列車の中でだと思うが走り書き風にメモに書いていた。そのメモにはいま自分がよく覚えていないことも書いてあり、メモをとることの意味をあらためて考えた。そのメモから少し書いてみる。
 
 
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川があった。古いコンクリの橋の上で男の子が2人つりをしている。橋の入口に、通る人のじゃまにならないように自転車をとめてある。おばさんがそこを回って橋を渡り終える。ひがんばなが河岸にたくさん。畑もある。
 
鳥が魚を狙っているがその鳥にちょうがとまり、鳥がびっくりして身震いする。キバナコスモスやむらさき。共生の風景。こういうのを共生と言うはずだとあらためて思う。
 
やがて3つの川が合流していた。○○川だけではない。◎◎道に合流。△△公園で遊ぶ子どもと大人。駅近くの脇に再開発された商店街がわずかにあった。ネオン街。夕日。パンをかう。
 
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 このメモに書いた場所がニュースで報道されていた。川あたりの光景がテレビの画面にちらっと映った。その光景を見てこの場所を歩いたと思い出した。テレビに映し出された光景に、メモに書いてある景色を心の中でかぶせている。