とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

「ものびと」 (ものびと論のこころみ 1)

 
 前回記事「環境記録」で取り上げた10年前の私が書いていたメモに、(ひとりのひとがひとつの人格であるように)ひとつのものが人格物であるという言葉があった。
 
 ここしばらく、ものの尊厳のようなことを考えている。ひととは違うとしても、(ひと以外の)ものにもひとの尊厳と似たものがあるという感じが私はする。ただ四六時中そのように思っているという自覚や自信はなく、ものには(ものにも)尊厳がある、と高らかに(代理)宣言する気持ちにはなれない。
 それでも、道行く先で出会う木々や草花、ときには石や看板や道標、そうしたものが私には、たとえばお地蔵さんと同じような境位にいるようにも思える。お地蔵さんは多くの人々にとって大切な存在だろう。そうでない人にとっても多くの場合、大切に思うほどでなくともないがしろにはしがたい存在なのではないかと思う。
 そうした境位にあるものもののことを考えるために、なにかあらたな言葉が要るように思う。「ひと」とは呼ばないにしても、これまでのように「もの」と言って済ませられない、それならひとまず(あくまでもひとまず)「ものびと」という言葉を立てて、そうしたものもののことをその言葉のあたりで考えてみるのがどうだろう、いまのところそのように考えている。
 「ものびと」という言葉をいまのところ特定の意味内容を持った概念として取り扱うようにするつもりまではない。たとえば「かみ(ときどきカミと書かれるような)」のようにある種の特定の尊厳性を表す言葉に仕立てるつもりはない。標語のようなものとして使っていきたい。
 
 
※ この記事を投稿したとき、「ものびと」に続けてもうひとつの言葉を出して少し書いていた。ただあまり話がこなれていないと思い、もう少し考えて後日あらためて書くことにした。「長考篇」というブログタイトルではあるけれども個々の記事は短めに書いていろいろな着想を出しつつ、長く考えていこうかと思っている。