とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

「ものとなり」 (ものびと論のこころみ 2)

 
 「ものびと」論、ということができるかどうかまだわからない。何かの尊厳をあらわすために「ひと」という概念に頼るのは疑問があり(いつか論じるつもりでいる)、「ひと」になぞらえながら何かを理解するというほど「ひと」ということを自分がわかっているとも思えない。それでも当座、「ひと」をひとつの準拠点にしながら「もの」の大切なることを考えていくのはひとつの道だろうと思う。
 
 
 他のところで書いたことがあるが、以前まちの植物を見始めた頃、私は「マスコット」「キャラクター」的なもの(こと)に関心を持っていた。人ではないけれど何か「ひと」的であるような、あるいは「まもりがみ」のような、身近にいて「ひと」に似た何かを感じさせるもの、そういうものへの関心を持っていた。前回記事にちょっと書いたお地蔵さまはまさに「まもりがみ」的な存在だと思うが、ご利益が感じられるかどうかというよりは、暮らしのそばにいて見守っていてくれるような気がする、そういう存在のことを考えていた。
 ただ、まちの植物を見始めた当初はそこまで植物を「ひと」的に思っていなかったと思う。もともと「マスコット」への関心とは別の関心から植物を見始めたのではあった。まちにおける植物のあり方(生え方、なくなり方)に人間の営為が関わっているように見えて、植物と人との関わりという観点からまちの植物を見ていた。それが、歩きながらずっと植物を見ているうち、しだいに、植物と人との関わりを考えるというより、植物の日々を没入して見ているようになっていた。ああきょうは元気にしている、花が咲いた、実がなった、と思い、工事で木がなくなると悲しくなり、そのようになくされていく木々草花のことを想うようになっていた。
 植物の写真も撮っていた。あるとき、当時お会いしていた写真家の方から、草の写真を撮るとき草に話しかけていますか?と言われたことがあった。自分は話しかけている、ああきれいだねと話しながら写真を撮っている、そんなふうにおっしゃっていた。その頃は私は草をそのような話し相手に思っていなかったし、それからしばらくも話しかけることはしなかったと思う。が、いつのまにか、写真を撮るとき、そして撮らなくても見かけたときに、草に声をかけていた。人が相手のときよりははるかに独り言に近い感じで話しかけているが、それでも話しかけてはいる。
 いまは、まちの草や木は私には「ひと」に似た何かであると思う。「まもりがみ」として何かのときに人を守ってくれるわけではないだろうけれども、「まもりがみ」のように自分の暮らしや他の人々の暮らしのそばで、いつも生きて、この世界に同伴している、同じ時間を歩いている、そういう存在だと思う。
 
 
 前回記事に書いた「尊厳」という言葉で言えば、「ひとの尊厳」は誰にもあり、個々の人によって尊厳が異なるというふうには考えるわけにいかないが、いっぽうでそうした尊厳があるのは「ひと」一般ではなくひとりひとりの人である。むしろ、ひとりひとりの人がいて生きて暮らしている、そのひとりひとりの大切さの抽象として「尊厳」という概念を導き出し、それをひとりひとりの人に宛てて返している、と考えるのがより正当なことだろうと思う。
 そうした人のひとりひとりの大切さが、ひとりひとりの何においてあらわれているかと考えながら、正しいかどうかはわからないけれど「ひととなり」という事柄に思い当たった。人にはその人の「ひととなり」がある。人と相対するとき、抽象的な「ひと」「人間」と相対しているわけではなく、何かその人であるところのその人と相対している。そのときに感じているのがその人の「ひととなり」だろうと思う。
 人の「ひととなり」はその人その人ごとにあり、ときには「性格」として類型化されて理解される場合もあるだろうけれど、もともとは類型のないそれぞれの「ひととなり」であるだろう。「ひとあたり」はその人と相対するときに相対した人が受け取るその人の印象だと思うが、「ひととなり」はそうした印象よりはいくらかその人自身のあり方により即したものであるような気がする。いっぽうで(やはり)、その人自身のあり方は「ひととなり」という概念でちょうど言い表せるものでもないだろうと思う。その人そのものはその人の「ひととなり」の向こうにいるだろう。それでも、その人以外の人にしてみると、その人はその「ひととなり」を通路として、自分の前にいて自分と関わってくる存在ではあるだろう。

 人にはそれぞれの人に「ひととなり」があるように、犬にはそれぞれの「いぬとなり」があり、猫には「ねことなり」がそれぞれの猫にある。これは疑問の余地がないことだと思う。
 そのことと同様に、草には「くさとなり」、木には「きとなり」がある。それぞれの草、それぞれの木は、それぞれほかの草や木とは違う「…となり」がある。「草」や「木」がすべて同じに見える人も多いだろうけれど、同じに見える人でもひとつひとつの木がそれぞれ「別の」木だということを理解はできるだろう(草は難しいかもしれない。そのあたりのことはいつか論じたい)。そのひとつひとつの木、あるいはただひとつの木に接していると、いつかその木の「きとなり」が感じられてくるようになるのではと思う。
 とりあえず、そうしたいろいろなものものの「…となり」のことを総称して「ものとなり」と呼んでおこうと思う。ひょっとしたら「ひととなり」もそういう「ものとなり」の部分集合と考えるのが正当であるかもしれないが、当面そう言う必要まではないと思う。
 「ものとなり」はそれぞれのものものに別々にあり、それぞれに異なる。そうした「ものとなり」を念頭に置いてものもののことを考えていけば、いまあまりにふつうに行われすぎている、同種のものをひとからげに語り論じ取り扱うこと(たとえば「草」「木」あるいは「桜」「パンジー」、あるいはまた「植物」「生物」)のなかに、ひとつひとつのものものを閉じ込めずに、ひとつひとつのものもののことを考えて接していく道が開けていくのではないかと思う。
 
 
 ひとまずいまは、まずは、木に草に、道行く先々で出会ったものものに、そのものの「ものとなり」があるということ・あったということを言ってみたい。きっと、このあと私が出会う何物かにも、その物の「ものとなり」があることだろう。その「ものとなり」を感じ受け取りながら、その出会った物に面して接して関わっていくことができたらと思う。
 
 
改訂
 2018年7月17日 文中の表現を1か所「写真家」にあらためました。