とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

「正常性バイアス」に思う

 
 新聞コラムで「正常性バイアス」の語を見かけた。自分が関連分野の研究をしていた時代(もう前世紀のことになる…)はこの言葉は聞いたことがなかった。最近耳にする機会が多くなってきた言葉だけれど、私はこの言葉というか概念が依って立つ世界観、少なくとも人間観に、問題がある気がしている。
 
 といっても私は現時点で「正常性バイアス」の定義を知らないし、その概念が登場する論文も読んだ記憶がない。ほぼ、インターネット上で何かが話題になり議論されている中でその言葉が語られているのを目にするだけである。それでもそうした話はこの数年でしばしば目にする。それで、とりあえずwikipediaで「正常性バイアス」について読んだ程度のおさえで、ネット上で語られている話を思い返した上で、少し書こうと思う。
 
 正常性バイアスがいま語られる場合の多くは、何らかの「異常」、もっと言えば「危険」の想定があって、それを人が「正しく」認知できないと(「心理学」的に)理解されているのだろう。しかし危険はそもそも誰かが認知する事柄であり、そのように認知していない誰かとのあいだの問題、つまり心理学の問題というよりはコミュニケーション論の問題なのでは。
 
 そして「危険」はしかじかの状況下で必ずそう認知しなければならないと決まっているわけではなく、「危険」を認知している人と認知していない人とのあいだに優劣はない。また認知したら必ず所定の行動をしなければならないと決まっているのでないなら、行動する人としない人とのあいだの優劣もない。
 
 その「優劣がない」ということがいつも議論から抜け落ちているような気がする。それが抜け落ちたままであれば、「正常性バイアス」絡みの議論は、劣っている人を正しく導くみたいな固定観念(安直な言葉だけれどちょっと他に思いつかない)の下にい続けることになるだろうけれど、しかしそれで人を「導く」ことができるだろうか。
 
 あの人は「逃げなかった」、すなわち「正常性バイアスにとらわれていた」人だった、という理解の仕方をいったんでも撤回してはじめて、その人がそうしていた理由、そうしていなかった理由、その人の「訳」に、こちらの想像が届いていく可能性が出てくるのではないか。
 
 そうした想像が届いていかないあいだは、これからも、こちらから何を言っても届いていかない人がかならずいるだろうし、い続けるだろう。
 
 人は何かを正しく認知したり認知できなかったりしている存在なのではなく、その人なりに何かを知り何かを思い、他の人が知っている何かを知らずにいて、他の人が思っている何かを思っていない、それぞれにそういう存在なのだと考える。人に何かをどうしても伝えたいなら、やはりそこまで立ち戻らなければならないのではなかろうか。
 
 人に何かを伝えることで人を変えるというよりは、伝えようとすることで自分が変わる、ということになるのかもしれない。
 
 いずれにしてもいまはつらい。
  
 
追記 2018年7月14日
 
 この記事を書いて載せた後、少し論文の検索をして、正常性バイアスという概念の問題点を指摘する論文を複数見つけた(それにしても「正常性バイアス」の語が登場する論文自体が本邦ではけっして多くないという印象を持った)。それらの論文の論旨とこの記事に書いたことは軌を一にするわけではないと思っているけれど、そういう批判的な(観点も持ち合わせた)論考が既往のものにあるということはよいことだと思った。
 
 また、いま起きている災害の事態に関していろいろな話を読んでいて、こんどの事象・事態をかんたんに「正常性バイアス」で説明した気にならないほうがよさそうだとも思った。つまり、危険性を示す情報が広報されていてそれを受け取った人々が避難しない、その(非)行動の説明原理として「正常性バイアス」を持ち出す、ということ自体に、「いまは」慎重である必要があるということである。
 というのは1つには、こんどの事象・事態ではダムや堤防など、社会的・政策的に導入されている治水機能のあり方や運用のされ方が、被害(の質や大きさ)に何らかの影響をしている、もしくは相互関係を有している疑いがあるように見えるので。もし避難するしないを人の心的側面から理解しようとするなら、こうした治水機能の社会的側面、その現状や運用、それに対する人々の評価であったり経験であったり思いであったり、そういうことが、「正常性バイアス」と呼ばれるような心的機制とは違う仕方で、こんどの状況のもとで心的に動的に(状況の変化・「不」変化とあいまって)働いていた可能性を、丁寧な状況分析とあわせて考えていく必要がありそうに思う。
 たとえば、今回被害が大きかったある場所では、ダムの放水が急増した局面があって、それに引き連れる形で浸水の程度が大きくなったという話が伝わっている。そこにいた人たちは、そうしたダムの運用について、あるいは川の水位の変動(あるいはその変動の「なさ」)に関して、どのように知っていて知っていなくて、そのことをどのように思っていたか思っていなかったか。今回の事態をもし、「人々が避難しなかった・避難が遅かった」と理解して問題点を明らかにしていこうとするなら、こうしたことを、まずは「正常性バイアス」という概念のバイアスなしに、その人たちひとりひとりが思っていたように正当に、謙虚な態度で理解しようとしていく必要があるだろう。
 そうでなければ、すくわれないのでは。