とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

隣在、もしくは臨在 (ものびと論のこころみ 3)

 
 存在、という言葉はどうにもむずかしい。とりわけ、○○は存在するか、という問いは、それをなんで○○でないこちら側で答えることができると考えられるのかがいまひとつわからない。
 
 自分がこれまで書いてきた研究ノートや発表レジュメでよく、「隣り合っている」あるいは「隣り合う」という表現を使ってきた。私たちはさまざまなものものと、意識しているかしていないか、そうと知っているか知らないかはともかく、隣り合っている。その隣り合っているものをときおり見つけて、見て触れて、関わっている。
 ただ、その「隣り合っている」ということは具体的な何か誰かを見出すことを通してしか理解できない。具体的な何か誰かと出会って、その何か誰かが出会う以前からたしかにいたのだと理解して(理解するというより、「出会う」という様式がすなわち「いた」相手と出会うことなのだと言えるだろう)、そのことから敷衍して、まだ出会っていない何か誰かがいる、いま知らずに「隣り合っている」のだと理解する。そうしてはじめて「私たちはさまざまなものものと、意識しているかしていないか、そうと知っているか知らないかはともかく、隣り合っている」と言えるようになるのだと思う。
 その具体的な何か誰かと出会ったとき、その具体的な何か誰かはもちろん、「存在」している。でもそれ以前に、「隣在」しているという気がする。あるいはむしろ、隣在して「いた」のだという気がする。存在という事柄は、数々の隣在を通して、具体的な何か誰かを数多く知って、その何か誰かと関わって暮らしていく中で、理解してきた事柄なのではなかったろうか。そういう意味で、私は存在に隣在が先行している・先行して「いた」という気がする。
 
 言葉の響きから連想して言うと、隣在はむしろ「臨在」であるかもしれない。私はその何か誰かに面して臨んでいる。そのときにその何か誰かは「隣在」しているのであり、そうしたことを私から切り離して(というのは、それらは私が知ろうと知るまいと私がいようといるまいと「いた」だろうから、その「いた」こと、ひいては「いる」ことを)おしなべて「存在」と呼んだ、ということではないだろうか。
 
 であれば、存在、という事柄を語ることができるのは、そうした存在しているものもの、それはもともと(私に・私と)隣在していたもの、もっと言えば、あるときたしかに臨在していたもの、そうした具体的な、私が出会ったさまざまなものものが、いわば故郷であって、その故郷に私がいて、あるいは故郷のことを私が想ってはじめて、語ることができるようになった、そういうことなのではないだろうか。
 であれば、いま面している、臨在している、隣在している、かつて面していた、隣在・臨在していた、それら具体的なものものを抜きにして、「存在」を問うている場合ではないのではないだろうかと思う。そしてこのことは、「存在」にはかぎらないだろうとも思う。たとえば「生命」とか「人間」とかの、存在しているものものとその特質を込みにしてその「本質」「本性」みたいな事柄を議論しているときにも、同じことが当てはまるのではなかろうか。
 
 そして、臨在しているもの、隣在しているものが「存在するか」という問いは、さすがにこちら側で答えるのが失礼というものだろうと思う。「失礼」というのは比喩表現と受け取ってもらってもいまのところまだ差し支えないけれど、「失礼」と言うのがかなり当たっている感じが私にはある。そうした、こちら側でその存在についてどうこう考えることが「失礼」になるようなものものに、私たちは日々囲まれて、まさに「隣り合って」暮らしているのではなかろうか。
 ここまで書いてきた「ものとなり」の話、そして「ものびと」の考え方が、ここに通じていくと思っている。それはまだ予感というか、気持ちの上で通じている感があるというだけだけれど、そこはゆっくりと考えておいおいこつこつ書いていきたい。