とおりすぎの記

 考えごとを書くブログ。書いたはなから通り過ぎていくようでもある。

木の世界、草の世界、ベンチの世界 (ものびと論のこころみ 4)

 
 木の世界、草の世界、ということをおりおり考えている。
 
 「世界」ということについて、20年くらい前、自分が趣味として楽しんでいたトランシーバの交信体験を通してあれこれ考えて、ほぼ本1冊分になるぐらいの書き物を書き、所属していた研究室に提出したことがある。それ以来、「世界」という事柄(「世界」という「もの」、と言うより「事柄」と言うのを私は好んでいる)についていろいろなテーマの下で考えている。
 提出しないままの博士号請求(するつもりだった)論文では、地物としての木や草の世界についてかなりの部分を割いて論じていた。それを書いたのもいまから5年ほど前のことになる。公開予定のない書き物のことを引き合いに出すのもよくないかもしれないが、自分の頭にはそういうこれまで考えた「世界」のことがいろいろ残っていて、「世界」について何か話題になったり、何かのものごとの意味や大切さを考えたりするとき、「世界」について考えていたことをあらためて引き出してそこをもとに考えを巡らせたりしている。
 
 少し前にハイデガーの「世界内存在」や「石には世界がない(石は無世界的である)・動物は世界が貧しい(動物は世界貧乏的である)…」の話について考えていて(いまの時点でそんなに理解しているわけではない)まったくふっと思っただけなのだが、たとえばおよそ存在するものには世界がある、と考えられないかと思った。だじゃれだけれど、世界ない存在、ではなく、世界ある存在。
 
 私は、デリダの『雄羊』や『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』の序文を読んでそこに書かれてある「唯一の世界」の話、1人の人が亡くなることは「唯一の世界」が失われてしまうことだ、という話を知っている(『雄羊』は2006年の邦訳で知った。たぶん刊行後すぐに購入して読んだと思う)。ただ、その話の前提になっているだろうハイデガーの『形而上学の根本諸概念』はいま読んでいる最中で、またデリダの『獣と主権者』にも(も、というより、より詳しく)「世界」のことが論じられている箇所があるのを知ったけれどもそちらも読んでいる最中。
 いまの時点で自分には、それらの著作で言われ論じられている「世界」に、いくらかの納得感もありながら(とりわけデリダの『雄羊』などで言われる「唯一の世界」の話に対して)、しかしまたいくらか違和感も感じている。世界とはそういうことだろうか、世界はもっと別様に考えられるのではとも思う。それらの本をもう少し読んだ後だと考えが変わる可能性があると思うけれども、しかしいつの時点でも「読んでいない」本は山のようにあるわけで、それらの本を「読まない」まま自分なりにものを考えていて、そしてそれは不当なことではないとも思う。
 
 そこで、考えが今後変わるか変わらないかわからないが、今年4月に自分の考え帳に書いたものを載せてみる。だいぶ前から下に載せたようなことは考えていて、5年前にツイッターに簡単に書いたことがある。ツイッターのほうもあとで再録することにして、まず今年4月に書いたもののほうを載せる。

 
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 木の世界、草の世界のことを考えている。
 
 そこにいるその木にはその木の世界があり、そこにいるその草にはその草の世界がある、と私は思っている。その人にはその人の世界があり、その犬にはその犬の、その猫にはその猫の、世界があるように。しかし同じようにではないかもしれないとも思っている。
 思うのはひとまず思っているとだけ書いておくとして、その木の世界、その草の世界ということを考えるのにはいくつか参考になった事柄がある。
 
 愛媛の松山だったと思うが、公園のベンチがニュース番組で取り上げられているのを見たことがある。多くの人に親しまれているベンチで、そのベンチを定点観測というのか、カメラが待機して、ベンチを訪れる人々やベンチのある場所から見える景色を映していくという取り上げ方だった。
 ベンチの所から見ると、人はやってきて、ひとときベンチにかけ、そして去っていき、また人があらわれ、そして去っていく。景色は時とともにうつろいながらベンチのまわりに広がっている。最後にベンチのある景色が映し出されてベンチのニュースは終わった。
 
 そのニュースを見て、私は、ベンチの「世界」を見た気がした。そのベンチは公園に何事もなく静かにあるだけに見えるベンチなのだが、その片時だけ見ては知られないいろいろな出来事−−人がやってきてかけて去る、たぶん虫や鳥もとまっては去り、草がとなりに生えては枯れ、落ち葉がつもり、風が吹いてゆく−−が、そのベンチと関わって起き、あるいはベンチのそばで起き、ベンチから離れた所で起きてゆく。その景色がベンチの所からは見える。そして起きることのどれほどかはベンチの所からは見えず、見えない所でたくさんのことが起きてゆく。
 そうしたことはベンチの「世界」だと思った。ベンチから広がる世界がある。その世界の上で(私は「中で」より「上で」だと思う)、いろいろなことがベンチと関わって、あるいは関わらないで起きてゆく。その一端が、そして一端だけが、ベンチの所から見え、その視界の外に見えない所が広がっている。
 
 そしてそう思うと、ベンチは、その場所から見える広がり、その外に広がる見えない広がりを、一身に静かに抱いている・抱えているように見える。ベンチは世界を水のように湛えている。この世界の片隅にベンチがあるというより、ベンチが世界をその身に湛えている。そのように感じる。そのベンチの世界の上に、私も生きているのだと。
 
 そのように思うと、それはそのベンチだけのことではないように思える。私が見ている木、草、どういったものがそうした世界を湛えているだろうか、と思う。
 
 
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 上に載せたベンチの世界のことをいつ思ったのか定かに覚えていない。『雄羊』を読むよりは前だったのではないかと思う。トランシーバの世界について考えたことが「もと」になっていると思うけれど、トランシーバの世界の話はどう要約して書けるかまだよくわからないでいる。
 
 次がツイッターに書いたもの。2013年4月1日。当時これを書いたアカウントを削除しようとしていたところで、最後に書きたい思いをいろいろ書いていた。
 
 
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木が1本生えていると、そこから世界が測られる。木のすぐ側、少し離れて木が見えるところ、見えなくなってそのさらに先。そのさらに先…。そんなふうに、木からの広がりとして世界を理解することができる。だから、ふつうに言うこの世界のどんな場所も、どんな遠くても、その1本の木の世界の上。
 
…「世界」は、たぶんそのようにしてはじめて理解されたのだ、と思っている。そういう「世界」の上のばらばらな場所や出来事は、互いには無関連かもしれないけれど、少なくともその1本の木から測られることにおいて、どれも「同じひとつの」世界の上のものごと。無関係であっても、無縁ではない。
 
と思っている。
 
 
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 このツイートを書いたのは、ある社会問題をめぐって「1度現地へ行ってから批判を」という声が上がっていたことに対して、「現地」を体験しなければ語れないとはどういうことか、そもそもそのような限られた「現地」とは何か、と考えながら、そこから少し跳躍してその議論に宛てて何か書こうと思ってのことだった。
 その文脈を離れても、このツイートで書いた1本の木の世界−−それは端的に、世界、とひとこと言うほうがよいのかもしれない−−の話は、意味を持つのではないかと思う。「世界」がそのようにして「はじめて理解された」かどうかはいまはやや疑問にも感じるが、そこも含めてもう少し、1本の木の世界、1本の草の世界、ものの世界のことを、考えてみたいと思っている。
 
 
※ 修正 2018月7月28日 『雄羊』を読んだ時期と自分が考えたこととの時間関係について書き加えました。自分の考えにそぐわないと思った一部の地の文の記述を削除し、また「 」を少し整理しました。
※ 修正 2018年8月20日 冒頭の《世界という「もの」と言うよりも「事柄」》に関して書いた箇所、そして後半のツイートを書いた理由の説明(「議論に宛てて…」の箇所)を、意味の通じやすさを考えて少し書き直しました。